Scarsdale
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「ジャップ」 ある母親の記録:偏見(4) 日米新聞 1988
 

デビ。
おまえはこの1月で8才になった。一休さんみたいなくりくり頭で私の腕の中で眠っていたのはついこの間のような気がするのに、あれからもう8年もたってしまった訳だ。「デビちゃんがナーサリースク一ルに行っちゃったらマミーは寂しいな。どうしたらいいかしら。」「大丈夫よ、マミ−。テビゃんすぐ帰ってくるから。泣かないでお利口にして待っててちょうだい。」こんな会話をまじわしたのもつい昨日の事のように思えるのにナーサリースクールも、幼椎園も一年生も本当にあっと言う間に終わって、はや2年生だものね。「デビちゃん、大きくならないでね。ずっとこのままマミーのベービーでいてちょうだい」という私の哀願に対しこれまではずっと、「いいよ、いつまでもベービーでいてあげる」と約束してくれていたのに、最近では「そう言う訳にもいかないのよ、マミ−。だってお友だちがみんな大きくなっていくのに、私だけこのままではいれないでしよう?」とマミーより友だちの方が人事なことをにおわせてみたり、ほらまたお野菜残してる、何でも食べないと大きくなれないでしょうとうっかり口に出すと、「マミーったらいつも私に大きくならないでと言ってるでしょう。だから私、なるべく栄養のあるものはマミーの為に食べない事にしてるんだ」などと 逆襲の材料にするようになった。大きくならないでと言ったり、大きくなれと言ったり、ほんとはどっちなのようと眉に皺を寄せて親に語め寄り、ついには親を吹きださせたりして、何だかおまえほこの所少し生意気である。この分ではティーンエージャーになったとき のことが思いやられる。

どっちといわれたって、どっちも偽らざる気持ちだから困ってしまうのだ。今のままで時がとまったらどんなにいいだろう という思いと、甲く芽を出せ柿の種とばかりどんどん肥料を与えて成長に目を細めたい気持ちは本当に矛盾してると思うけれど、本当にどちらも事実なのだから仕方がない。これは、8才の今のおまえにほ分かりにくいだろうけれど、親になったらきっと分かると思うよ。矛盾しているように見えてその実かけがえのないすばらしいこの思いを、いつか母親となったおまえと語りあえる時があったらどんなにいいだろうね。

さて、私はここしばらく偏見についておまえたちに語りかけているが、どうしてこの問題に拘泥するのかおまえたちに分かるだろうか。今のおまえたちには偏見ゆえの嫌な経験も、自分が他の人と違うというような認識もほとんどないに違いない。なのに私がこのことについてくどい程おまえたちに語り続けるのは、それが親としての責任であると思われてならないからだ。人種のるつぼと言われるアメリカに住んでいるからとか、おまえたちの両親の国籍が違うからとかいう為だけではなく、どこに住んでいようとも自分自身の中の他人に対する偏見を見極めその事を子供たちと話し合って行くことは、いずれ社会に子供を送り出す親の責任だとわたしは思う。勿論子供は親だけで育つものでばないし、家庭の教育だけでどうにもならない部分の多いことはよく分かっているけれど、少なくとも他人に対しての感受性や偏見の無意味さを伝えていくのは先ずは親の務めであるという気がするのだ。オーバーな言い方をすれば例えば世界中の全ての家庭が偏見のもたらす問題やその対処などについて考えたとしたら一、二世代では無理としてもいつかは人種間の争いがなくなるかもしれず、そうすれば何も偉い人が集まって軍縮会議など開く必要なぞ全然ない訳だよね。有史以来の絶え問ない人類の争いを考えれば、事がそれ程簡単とはもちろん思えないけれど少なくとも肌の色や人種へ宗教などの違いで憎み合ったりする事はないじゃないかしらね。でも本当のことを言えば、ダディとマミ−はそんな世界的展望をもっておまえたちを育てている訳でばない。だから親の責任というようなオーバーな言い方をするべきではないかもしれないね。

さて今回は先日ある講演で聞いた「JAP」について書いてみたい。「ジャップ」というのは日本人に対する蔑称だけでなく、「ジュウイイシュ・アメリカン・プリンセス」としての意味もあり、先日の講演はこちらが対象だった。この呼び方は、特にユダヤ人女性のみにむけられたもので、「あの人はジャツブ」と言えば、「金持ちで我がまま、物質的で上昇志向が強く自分勝手」というような意味をさす。最近とくに大学のキャンパスなどで明らかな意図をもってこの言葉が使われることが多くなっているとのことで、講演の目的はこのことを例にまたぞろ広がりはじめているアメリカでの反ユダヤ思想を考えるというものだった。金持ちで我がまま、物質的などという人は世界中到る所にいるし、ユダヤ人に限らないのに、ユダヤ人だけが特別「ジャップ」と呼ばれるところに偏見が見え隠れするというのである。デビ。おまえには日系としてもユダヤ系としても「ヅヤツプ」と呼ばれる可能性がある訳だ。どちらの「ジャツプ」にしてもそれが耳につくほど使われだす時の社会情勢は決して明るいとは言えない。

政情の不安がしばしば特定の少数民族をその不安を生み出すグルーブとしてスケープゴートに祭り上げる事があるからである。このことを考えれば、例えば、「ジヤップ」という言葉がおまえに浴びせ掛けられたとしても、それは不愉快な事には違いないが、決しておまえの人格を云々するものではないことに気づくであろう。それを口にする人の偏見で曇っている目、問題の本質をみなしで責任をたえず他者に転嫁しょうとするずるさを感じとればいい。他人が勝手に、またはある意図をこめて作ったイメージに振り回される必要なんてないのだという事をこれからもことある毎におまえたちと話し合っていきたい。


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