Scarsdale station area
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アウシュヴィッツ/ビルケナウ強制収容所を訪ねて   
2006年6月

Auschwitzこのほど夫婦で中欧を旅行し、ポーランドではアウシュヴィッツ、ビルケナウ強制収容所を見学してきました。アウシュヴィッツはドイツ語の地名で、ポーランドでは「オシフィエンチム」と呼ばれています。ビルケナウはアウシュヴィッツから3キロほど離れたブジェジンカという村に第2アウシュヴィッツとして設立された収容所で、現在は両方とも国立博物館としてポーランド政府によって運営されています。写真はこちらにもあります。

先ず、ビルケナウの収容所の監視塔に登って驚くのはその敷地の膨大さです。面積にして約175ヘクタール(約53万坪)というこの収容所にはかって300棟のバラックが建っていたそうですが、撤退するナチスに破壊されて現在では45棟の煉瓦造り、22棟の囚人棟が残っているだけです。ただ破壊されたあとのバラックにもなぜか暖房用の煙突だけは残されていて、その数の多さだけでも収容所がいかに大きかったか想像できます。周囲を有刺鉄線で囲まれた監視塔の真正面には鉄道の引き込み線があり、ヨーロッパ中からつれてこられたユダヤ人はここに着くとすぐに選別されて、働ける人は囚人に、働けない女性や子どもたち、老人、病弱の人たちはガス室へ送られました。ここのガス室はアウシュビッツの4倍の大きさだったそうで、2棟の焼却炉と共にナチスが証拠隠滅をはかって爆破したあと瓦礫となったままで現在も残されています。その向こうにはアウシュヴィッツ・ビルケナウで犠牲になった20の民族の言葉で追悼文が刻まれた国際慰霊塔が建っていました。

アウシュヴィッツ収容所の正面には「働けば自由になる」と書かれたプレートがかかっていて、その下の建物の横にはかってここで演奏していたという音楽隊の写真が飾ってあります。ヨーロッパの各地から何日もかけてぎゅうぎゅう詰めの窓のない家畜用の列車で運ばれてきた人たちにとってそのプレートや音楽は一瞬ほっとした思いを抱かせるに十分なものであったでしょう。ナチスのやり方は巧妙で、選別で死を宣告した人たちに対してもそれを知ってパニックに陥ったり、騒動を起こしたりしないようにと、先ずはシャワーを浴びて旅の疲れをとるようにと欺いて人々をガス室に送っています。収容所に送られてきた人たちのほとんどは東ヨーロッパに移住させられるだけだと信じていて、特にギリシャとハンガリーのユダヤ人たちは騙されてナチスから存在しない農場や土地、商店などを購入していたそうですから、長旅のあとのシャワーはあり難いものであったと思われます。地下の更衣所に入る人々の写真を見ると心中はともかく外見上は落ち着いて見えます。実際はガス室だった部屋には天井に水が出たことのないシャワーが取り付けてあり、チクロンBという毒薬が天井の穴から投入されて息が出来なくなるまで人々は自分たちがそんな形で殺されることなど夢にも思っていなかったようです。

ガス室と焼却炉は収容所を取り囲む有刺鉄線の外にあります。その入り口の前には絞首台があり、ここで1947年収容所の元所長だったルドルフ・ヘスが処刑されています。焼却炉は3台あったうちの2台が残されていました。一台の炉に2−3人の死体が入れられ、一日に350人の死体が焼かれていたということです。遺体焼却の仕事にかかわった囚人たちは充分な食料を与えられるなどの待遇を受けましたが、口封じのために3-4ヶ月でSSに殺害されました。コンクリート造りのひんやりとした薄暗いガス室や焼却炉はそこにあるだけで罪もないのに死んでいった人たちの無念さを代弁しているようで、こうした国家的な規模の犯罪が長年にわたって許されたことにあらためて強い憤りを感じたものでした。

プレートのかかっている正面を通って収容所の中に入るとドイツ軍需産業や収容所管理のため強制労働をさせられた人たちの囚人棟が並んでいます。ビルケナウと違ってこちらは建物の中がきれいに改装されて、収容された人たちの持ち物や囚人となった人たちの写真などが展示されています。展示されている犠牲者の持ち物は、解放前に犯罪のあとを消すと言う目的でナチスが火をつけ、35軒のうち6軒だけが残されたというブロックからロシア軍が発見したものだそうで、おびただしい量の囚人の髪、何万足の靴や所有者の名前と住所が書いてあるトランク、ブラシ類、めがねのつる、身体障害者の義手と義足などがあります。靴やトランクなどはワシントンのホロコースト・ミュージアム、イスラエルのヤドバシェムでも見ましたが、現地で見るそれらは他の所で見たとき以上におぞましく胸にせまるものがありました。

収容所に送られてきた人たちの荷物は「カナダ」と呼ばれた収容所内の倉庫に保管され、その後仕分けられてドイツ本国に運び出されています。奪った荷物を積んだ列車が立て続けにドイツ本国に向かったにかかわらず倉庫はいつも満杯だったとか。収容所に着いた人々はこれからの生活のために自分の財産の中で最も価値のあるものを身につけていたそうですから、ナチスは人々をガス室に送ったあと彼らのそうした財産をいとも簡単に国家のものにしたのでした。殺害したあとでさえ、死体から抜いた金歯を金の延べ棒の形でドイツ中央衛生局に運び、切った頭髪は物資不足だった当時のドイツで毛布や紳士服の布地にしたり、ベッドのスプリングの代用品として使用したりしました。

敷地をまわるといたるところに監視塔が建っています。周囲は高圧電流が流された有刺鉄線に囲まれ、逃げ出すことなどおよそ不可能だったことが想像できます。収容所で囚人となった人たちは最初の日に「お前たちには出口は一つしかない。焼却炉の煙突だ」と脅かされます。それから洋服を取り上げられ、髪を切られ、囚人番号をつけられて登録させられます。食事はほとんど飢え死にしない程度、その上に重労働が重なり、多くの人が栄養失調と過労、不潔な環境からくる伝染病、SSの拷問などで死んでいきました。収容所には「死の壁」と呼ばれる壁もあり、死刑の判決を受けて裸にされた囚人たちはこの壁の前で銃殺されました。「死の壁」の前には今日も訪問者からのたくさんの花束が供えられていました。

囚人に一切食べ物を与えず餓死させるという餓死室もありました。ここには布教のために日本を訪れたことのあるコペル神父が他の囚人の身代わりとなって亡くなった餓死室がそのまま残されていました。(コペル神父はチェンストフォーバのヤスナグラの寺院でも収容所の囚人服の姿で奉られています。→こちら)「立ち牢」「移動絞首台」などの棟もほぼ当時のままで残されていました。絶滅収容所のことが外部に伝わりにくかったのは逃亡がおよそ不可能であったことに加えこうした徹底的な弾圧で囚人たちを無抵抗、無気力にしていったからのようです。

アウシュヴィッツは初期はポーランド人政治犯の強制収容所だったのですが、1942年、ナチスが「ファイナル・ソリューション(ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の最終解決策)を決定したあと、ユダヤ人の最大の絶滅センターになります。ただここで殺されたのはユダヤ人だけではありません。犠牲者の大半はドイツ占領下のユダヤ人でしたが、アウシュヴィッツで最初に殺されたのはソ連軍の捕虜で、ここはまた21万のジプーシーの人たちの虐殺場でもありました。そのほかにもポーランド人、身体障害者、精神異常者、共産主義者、同性愛者、エホバの証人など、ナチスが生きるに値しないと言う判断を下した人たちが次々にガス室に送られ殺害されています。囚人にはチェコ人、ユーゴスラビア人、フランス人、オーストリア人、ドイツ人もいました。

アウシュヴィッツで1942年から終戦までに殺害された人の数は150万といわれています。実際にはファイルに登録されないで殺されていった人の数が多く、また資料のほとんどをナチスが破壊したため犠牲者の正確な人数をつかむのは困難な面があるようです。それでも収容所に人々を運んだ鉄道会社の記録やチクロンBガスを作っていたデゲッシュ社に残されていたガス消費量の記録がナチスに破棄されずに残っていたため、こうした資料も数を割り出さすことに役立ったようです。

ナチスはドイツ占領下の各国にアウシュヴィッツを含めて28の強制収容所を作っています。そのうちの6ヶ所は絶滅収容所で、そこでユダヤ人やその他ナチスが下等民族と決め付けたポーランド人、スラブ民族、ウクライナ人、白系ロシア人などが殺害されました。ナチスの政策で犠牲になった人たちの数はユダヤ人の600万を含めて、1100万以上にのぼると言われています。

ツアーの終わりにポーランド人のガイドに「ホロコーストの存在を否定したり、否定はしないまでも公表されている犠牲者の数を信じない人たちをあなたはどう思うか」と聞いてみました。すると彼女は眉をひそめて、「歴史の事実を否定するのは馬鹿げたこととしか思えません。本当に信じられないのなら、『百聞は一見にしかず』と言いますから、こうした収容所で自分の目で確かめることですね。」と言いました。彼女は続けて「でも今は博物館となっている収容所はどこも人々が見学しやすいように整理されていますから本当に信じたくない人に実際の悲惨さが伝わるかどうかは疑問ですけれど。」と言って肩をすくめました。

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