Scarsdale
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「嫌われるユダヤ人 ある母親の記録: 偏見(2) 日米新聞 1987

さて、子供たち。
お前たちも十才と七才なってどうやら、自分たちのアイデンティティにめざめはじめたようだ。九州の一地方都市で外国人の存在すらほとんど知る事のなかった自分自身の同年代に比べ、過五日はアメリカの学校へ、土曜日は日本人学校、日曜日はヒープルスクールヘ通学するお前たちが背後に抱えている文化の多様性は全く想像も出来なかったものだ。しかしお前たちはそれを何の不思議さも感じず自然にうけいれているように見える。お前たちにとってお正月におもちを食べる事、パスオーバーを祝い、メモリアルデー・パレードにポーイスカウトやガールスカウトの一員として参列する事などしごく当然の事としてうけとめられているようだ。ぞして、お前たちは、何人?との問いに対し、ちゅうちょなく「アメリカ人J」と答える。お前たちの中でのアイデンティティの確立はアメリカ人としてであって、日本的なもの、ユダヤ的なものは、お前たちにそれを意識させる事なく影響を与えているもののように思われる。父親と母親が継承させたい各々の文化がお前たちの「アメリカ人」の中で自然にうけつがれている様なのは、少なく共私たちには書びであり誇りですらある。    

然し、私たちには判っている。私たちがいかにお前たちをいとおしく思い、その文化の多様性に誇りをもって成長を見守ってやったとしてもおまえたちの巣立っていく社会がことある毎におまえたちの「アメリカ人」にゆさぶりをかけるであろうことを。私たちが感じるユダヤ人であるゆえの、日本人である故の偏見は当然お前たちのものともなるであろうがそれ以上の、受けなければならない多くの洗礼がお前たちを待っているように思われる。どうして急に思いたってこの様な事を書くのかというと、先日ある日本人と話していてその会話の内容に又々考えさせられたからだ。日米の経済摩擦について話し合っていたとき、その人は、こういったのである。 「何せ、私達日本人はジュウイチですものね。」

どういう事かといえば、ジユウはユダヤ人、嫌われているユダヤ人にプラスしてきらわれている人種であるとして、ジユウ プラス イチ、つまりジュウイチであると自嘲をこめて日本人が自分たちのことを呼ぶというのだ。自分たちをアメリカ人に嫌われていると思いその事を自嘲するのはそれは個人の自由であって他人がとかく言うことでもないと思うけれど、私が気になるのはユダヤ人を「きらわれた人種」と決めつけてはばかりないその僭越さ、感受性のなさだ。その人にユダヤ人の知人なり友人なりがいたとして、或いはわずかでもユダヤ文化にふれたとして、それでなおこともなげにジュウイチなどという言葉が使えるものかどうか。自分たちをあっけらかんとジユウイチと称することでユダヤ人を誹謗していることに気づかない無神経さは、それを云っている本人に悪意があるとは思えないだけに考えさせられてしまう。そして偏見がいかに無知の産物であるかを今さら感じないではいられない。全くの所ユダヤ人がきらわれた人種で日本人がそれ以上にきらわれた人種であるとしたら、その二人を両親とするお前たちはどういう事になるのだろうね。

子供たち。私たちはお前たちを偏見から守ってやる事は出来ないと思う。悪意があるにせよ、何気なくであるにせよ心ない他人の言動によって私たちが今尚傷つかざるを得ないようにお前たちもまた自分が何者であるかをたえず考えさせられな がら成長していくことだろう。ただ他人の偏見から逃れることはできないにせよ、その背景にある無知、無関心についてお前たちと話し合っていくことはできる。そうすることで少なくともお前たちは肌の色や人種の違い、どうにもならない体の特徴などで人の価値を決めるような大人にならないことを確信出来るような気がする。

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