講演:ニューヨーク教育事情:海外子女教育財団主催セミナー(東京国際教育会館)1996年10月
ウェストチェスター補習校中等部の生徒たちへ:アメリカで暮らすことの意義 1997年10月
ご紹介にあづかりましたキャッツ邦子です。私は、現在グリニッチ日本人学校の中にある教育文化交流センターと言う所で、プログラム・ディレクタ−、ボランティア・コーディネーターとして仕事をしています。教育文化交流センターというのは、ニューヨーク周辺の日本人児童生徒の教育を間接的に支援するという目的で、ニューヨーク日本人教育審議会(補習校を経営している団体)が設立した組織です。ここでは、専門家の方々が教育相談をしたり、日本の文化や教育に関する本や教材などを現地校の先生方や地域の方々、日本人の皆様に貸し出したり、新しくおいでになった方々のためにアメリカの学校や地域のなりたちなどについて説明するための講演会を開いたり、現地校の先生方に日本の教育などについて話しをしたり、という活動をしています。その他にはボランティアを募って老人ホームや現地校を訪問したり、センターに地域の皆様をお招きしてお茶やお花、お習字などの日本文化紹介を通じて交流をはかるということも定期的に行っています。日本紹介を媒介にはしていますが、この活動の目的は交流であり、お互いの触れ合いですので、必ずしも流暢な英語が必要な訳ではありません。皆さんのお母さんの中にもボランティアで私どもと一緒に頑張っておられる方が何人かいらっしゃいますが、地域の方々にとても喜んでいただいているんですよ。
さて、今日は校長先生に、「アメリカに永く住む者として、その体験などを皆さんにお話しをするように」と、ご依頼をうけてやって参りました。私のようなおばさんの話が皆さんに興味をもっていただけるのかどうか心配でしたが、27年間ニューヨークに暮らしてアメリカで学んだことも少なくありませんので、そうした経験を踏まえてこの地で暮らすことの意義といったことについて皆さんと一緒に考えてみるのも私自身の勉強になるかも知れないと思い、ひきうけさせていただくことにしました。
まづ、皆さんにお伺いしたいのですが、皆さんはどうして補習校に通っているのでしょう。中には親にすすめられて仕方なくという人もいるかもしれませんが、多くの場合、日本へ帰った時に困らないように日本語での勉強を続けたいから、或いは、日本人としてのアイデンティティを確立していく上でとても大切ですから、といった理由からではないでしょうか。母国語がキチンと話せ、書けるようになることは、その過程で背景にある文化も理解していくことですから、特にいろいろな人種で構成されているアメリカのような国では、自分を見失わないで生きていく、大切な要素ですものね。
アメリカは、特にニューヨークなどの大都会をあらわす際、以前メルティング・ポット言う言葉が使われていました。たくさんの人種が融合して住んでいる場所という意味です。アメリカに移民して来た人たちは早くアメリカに適応し、一日も早くアメリカ市民になるために、一生懸命英語を勉強し、その過程で自分たちの母国語を子供たちに教えなかった時代があるんですね。(もちろん、すべての人たちがそうだったわけではありませんが)例えば、日系の人たちの中にも、アメリカ市民として育った二世、三世の人たちには日本語を話せない人が少なくありません。しかし、最近ではほとんどの人たちが自分たちの文化的遺産を維持していくことの大切さに気付き、そのためメルティング・ポットと言う代わりにサラダ・ボールと言う言葉が好んで使われるようになりました。つまり、ボールは共通しているアメリカ人の部分で、サラダは、自分たちの文化をキチンと維持しているそれぞれの人たちということになります。
さて、日本では国際人という言葉がよく使われるますよね。国際人っていったいどんな人をさすのでしょう。英語がぺらぺらな人でしょうか?そうすると英語圏で生まれ育った人たちはすべて国際人だということになりますね。日本語と英語がともに流暢な人だったら国際人かな?すると、英語の話せる日本人は、みんな国際人ということになります。これも何か違う感じですね。私は、例えば英語は全く話せなくても、日本から一歩も外に出なくても国際人になれると思っています。もちろん外国語が流暢に話せるにこしたことはないけれど、自分の意見をきちんと持っていれば、通訳を使えばその意見は誰にも伝えることが出来ます。つまり、何語で話をするにしても自分のアイデンティティをきちんと持って、しかも世界にはいろいろな人がいて、いろいろな文化があることを認識し、自分の国が一番優れている、などという誤った考えを持たない人、が国際人なのではないかと私は思っています。日本に住んでいても地球全体がボールで自分はサラダの一部と考えることの出来る人ですね。
私は熊本で生まれましたので、皆さんの年齢の頃は、熊本で中学生活をおくっていました。その頃外国人に会うことなどめったになく、新聞などもほとんど読んでいませんでしたので、熊本が私にとって全世界でした。今から考えると、これは、サラダの中の例えば、人参か何かが自分だけが食べ物と思っている、つまり、全くの井の中の蛙だったのです。それに比べると皆さんは、ニューヨークと言う都会で、文化背景を異にするたくさんの人たちの中で暮らしている訳ですから、他者との違いを早くから理解すると言う上で、理想の所に住んでいるといえるのではないでしょうか。突然日本のお友だちとも別れさせられ、英語も日本語も同時に学ばなければならないという厳しい環境の中で、ラッキーなどとはとても思えないと言う人もいるかもしれません。でも、私の経験から言えば多くの文化に取り囲まれて暮らすということは、宗教にせよ、生活習慣にせよ、少なくとも世の中には様々な違った価値観があることを理解し、他者に対する思いやりを育む環境にあることだけは確かではないとかと思います。
さて、私がニューヨークにきたのは1969年ですが、この年、昭和44年は、歴史的にどんなことがあった年だったか、皆さん、ご存じですか。皆さんが生まれる10何年か前の話なので、覚えていると言うわけにはいかないかもしれませんね。アメリカではアポロ11号がはじめて月に着陸をすると言うニュースがありました。地球に帰ってきた宇宙飛行士のアームストロングさんたちは、その後五番街をパレードをしたのですが、誘われて群衆の中で彼らに手を振った私は歴史の瞬間をまのあたりにするような思いで、すごく感激したことをいまだに覚えています。それから留学生活がはじまるのですが、アメリカに来る前に3年ほど集中的に英語の勉強をしてきたにもかかわらず、やはり最初は大変な思いをしました。特に先生の一人にアラバマ州からやって来た南部なまりのひどい人がいて、何をいっているのかほとんど聞き取れなかったのです。彼女は、外国人を教えることが初めてというせいもあったのでしょうけれど、聞き取れない私をよほど馬鹿とでも思ったのか非常に意地悪な仕打ちをしました。何かがあると、「ユー・オリエンタル、つまりあんたたち、東洋人ときたら」という言い方をして、いかにも軽蔑のまなざしで私を見るのです。他のアメリカ人にはこれ以上出来ないような笑顔で接した後で、そんな風な態度を取られるので実際辛いものがありました。ある日、それはこちらへ来て半年ほど経ったあとでしたが、その言い方があまりにもひどかったので、もうプッツンという感じで、これ以上とても続けられない、日本へ帰るしかないと思いつめまてしまいました。その後、寮に変える途中、不注意で多分前方をよく見ていなかったんですね、車にはねられてしまったんです。幸い、すぐ救急病院にはこばれて命は助かりましたが、腰の骨にひびが入っているということで5週間の入院を余儀なくされました。最初の二週間ほどはそれはそれはもう言い様のないような痛さで本当に参ってしまいました。でも寮の人たちが毎日入れ替わり立ち代わりに見舞いにやってきまして、何だか急に人気者になった感じになり、いつの間にか痛さも気にならず、非常にお喋りになっている自分に気付きました。もともとおとなしい方ではなかったのですが、早いアメリカ人どうしの会話についていけなくて、ほとんど口を閉ざしている日々が続いていたんですね。それが、毎日大勢の人に話しかけられて、応答しているうちにそれまで気にしていたアクセントさえも気にならなくなっていたのでした。
そのうちに、先生にひどい仕打ちをされたのは私が日本人であるとか、英語が流暢でないとかいったせいではなく、彼女の方が解決されない問題を抱えていたからだと気付くようになりました。ご主人に去れて精神的に不安定な状態にあったことや自分の訛りを気にしているのも分かってきたからです。彼女がアメリカ以外にどこも旅行をしたことがなく、英語以外は何語も話せないこと、他の国のことを全く知らないで、アメリカが一番いい国だと思っているらしいことも明らかになってきました。つまり彼女は国際人という言葉からはずっと遠いところにいた人だった訳です。
それで退院したあと、「あんたたち東洋人ときたら」が始まった時思い切って、言ってやったんです。その前に何回か練習しましたけれどね。「私は、中国人や韓国人を代表していないし、日本人だって私以外に一億人以上の人がいるんですよ。私一人しか知らないあなたが私に対してユー オリエンタルなどと言うのは、自分の知識のなさを披露しているようなものではありませんかしら。」って。そうしたら彼女はびっくりしたように私を見ましたが、それから急に態度が変わったんですよ。その変化はこちらが驚くほどで、こんなことだったらもっと早く言えばよかったのにと何だか拍子抜けしたほどでした。
私の受けた仕打ちは一種の「苛め」ではなかったかと思いますが、日本では、新聞などを読んでいると、苛めについて、苛められる方に原因があると言う見方をしている人が多いですね。うじうじしているとか、苛められやすい性格だとか。でも、私の経験からそれは間違っていると思います。両親や周囲の愛を十分にうけている人、幸せな人、自分の生き方に充実感を感じている人は人を苛めたりする必要がないからです。自分に満足できてなくていらいらしている時、相手は自分より弱くうつる人であれば誰でももいいんですね。意地悪をするような人は、大人であれ子供であれ、例えば私に辛くあたった先生のように自分の問題を解決出来ずに、他人にあたっている場合が多い訳ですから、相手に選ばれる方こそいい迷惑ですよね。
私には今、二十歳になる息子と十七歳になる娘の二人の子供がいますが、小さい時から、苛められるようなことはあっても、人を苛めるような子供、つまり人を苛めることによって自分を満足させるようなそんな不幸な子供には育てたくないといつも思っていました。そして、そんな風に意識して育てていても、苛めたりすることがあるかもしれない、だから、「うちの子供に限って、そんなことはしない」などという思い上がりもしないようにと自分を戒めていました。幸い子供たちはアメリカの学校では苛めることも、苛められることもなかったようですが、補習校では、学年が上がるにつけ、「なんでアメリカ人が補習校に来るんだよ」などと嫌みを言われたり、本の読み方がおかしいと言ってからかわれたりして行くのを嫌がるようになりました。もちろんクラスの全員がそうだった訳ではありませんが、アメリカの学校で英語が話せない鬱積を我が家の子供たちのように少し外見の違う子供たちに向けているようで、気になるものを感じましたので、嫌な思いをしてまで通わせることもないと二人とも4年生の一学期で辞めさせました。
二人ともアメリカの学校では、中学校の頃が一番嫌なことが多かったと言っています。丁度皆さんの年齢ですね。この時代は体の成長は著しいのですが精神的にはまだ一定していませんので人を傷つけたり、悩んだりすることが特に少なくありません。アメリカの学校には、皆さんもご承知のようにスクール・スサイコロジストと言う専門家がいて精神的な悩みの解決にあたっていますので、苛められて辛い思いをしているような場合には一人で考えこまないで、こうしたプロの人たちに聞いていただくことも大事なことではないかと思います。苛める人は、そんな形で誰かの助けを求めているのかも知れませんしね。
さて、苛めが個人的なものから、民族間、国家間の規模に発展していくと、人種偏見という形であらわれるようになります。例えば日本が真珠湾を攻撃したことをきっかけとしてはじまった日米の戦争ですが、皆さんは、開戦後日系アメリカ人が自分たちの政府からどんな仕打ちを受けたか存じですか。西海岸に住んでいた日本人のほとんどはアリゾナなどの砂漠に建てられた強制収容所につれていかれ、戦争が終わるまでの数年間そこで不自由な暮らしを強いられたのです。表向きの理由は、住民の偏見から日本人を守るということでしたが、日本の同盟国として戦っていたイタリヤやドイツ系の人たちには何もしなかかったことを思うと、これは明らかに日系アメリカに対する偏見だったのです。あとになっていろいろな人たちが運動をしたおかげで、政府が謝って保障金も支払われました。では、こんな仕打ちにあった日系人が何か悪いことをしたとでもいうのでしょうか。もちろん何の悪いこともしていません。彼らの罪はただ、日系人だったということだけだったのです。
第二次世界大戦中にヨーロッパでは、もっとひどいことが起きました。ユダヤ人であったと言うことだけ理由で、六百万人もの人たちがドイツによって殺害されたのです。ユダヤ人ももちろん何も悪いことはしていませんでした。ただユダヤ人として生まれただけが彼らの罪だったのです。日本人もアジアで多くの犠牲者を出しましたが、人種偏見、つまり国家間による苛めですよね、が昂じるとどんなことになるか歴史は戦争と言う形で至る所に恐ろしい爪跡を残しています。
さて、話が少し飛びますが、第二次大戦中ヨーロッパでユダヤ人を助けた素晴らしい日本人がいますよね。皆さんの中には名前を聞いた人もあるかもしれませんが、杉原千畝という人です。杉原さんは、千九百四十一年領事としてリトアニア(のちにソ連の領土となり数年前にまた独立しました)と言う所で仕事をしていました。そこにドイツ軍によってポーランドを追われたユダヤ人が日本行きのビザを求めてやってきたのです。彼らは、イスラエルやアメリカに行きたかったのですが、いろいろな国へのドアが閉じられていて、日本を通過することが唯一生き延びるために残された方法でした。杉原さんは、外務省へ電報を打って、ビザを出すことを許可してくれるよう頼みます。しかし、ドイツの同盟国だった日本政府に、そんなことは出来ないとはねつけられてしまうのです。それでも杉原さんはあきらめず何度か電報で頼み続けたのですが、最終的に許可がおりないことが分かると、自分の意思でビザを発行します。結局はそのため、たくさんの人の命が救われるのですが、杉原さんは帰国後、上司に背いた罪で外務省を追われてしまいました。杉原さんの偉業はその後イスラエルやアメリカの多くのユダヤ人から正義の人として敬われ、今も世界中で語り継がれています。私は、十年ほど前、杉原さんの自宅を訪れたことがあります。杉原さんのすばらしい行いに日本人として直接会ってお礼がいいたかったからでした。ご本人は既に亡くなられていましたが、奥様が人種偏見に勇敢にいどんだ杉原さんのことを、「主人は生前正しいことをしただけだといっていました。」と言われるのを聞いて、自分の信念にそって生きていく人の強さに感動したことを覚えています。杉原さんのような人こそ、世界に誇れる真の国際人と言えるのではないかと私は思います。
今度は人種偏見がどんな不幸をもらたすか最近おきた話に触れてみたいと思います。数年前、ルイジアナと言う所で服部君という16歳になる高校生がハローウィーンの格好をして射殺されたことがありますが、皆さん覚えていますか。私はたまたまその後スカースデールで高校生六名と教師3名をつれて、日本へいきましたので、彼らを成田で送り出したあと名古屋にいって、服部君の両親にお会いしました。アメリカ人高校生の日本行きの目的は日本理解でしたからその延長として日米の掛け橋となることを夢見ていた服部君の意思に何ら形でお手伝いしようと思ったからでした。生前の写真などを見せていただきましたが、とても明るい少年だったようです。「服部君とアメリカへ」と題して旭丘高校の同級性が作った文集も読みましたが、それには学業優秀だった服部君、ラグビーで大活躍したけど、とてもおっちょこちいで人を笑わせるのが大好きだったという服部君のことが切ないほどの愛情をこめて書いてありました。将来は日米交流に一役買いたいと願っていた彼があんな形で死んでしまったことに対する怒りや、アメリカの銃規制に対する問い掛けも胸をうたずにはいられないものでした。服部君の人となりや将来の夢、日本人高校生の真面目な訴えは、絶対にアメリカにも伝えるべきことのように思われましたので、ご両親にお話ししてアメリカに在住する日本人高校生に文集の一部を訳してもらうことにしました。その後スカースデール周辺の日本人の高校生に訳していただいた文集は、服部君の両親が渡米された際、クリントン大統領に渡されました。私もその時はホワイトハウスの入り口までお供しました。その後に行われた首都ワシントンでの銃規制のためのサイレント・マーチにもご一緒させていただきました。
服部君を殺害した犯人のピアース氏は裁判の結果、正当防衛を主張して無罪となりました。この時も例えば相手が白人だったら、裁判の結果は違っていたかもしれず、もちろん殺されることもなかったかもしれないと言われています。ピアース氏は、白人のコミュニティの中だけで生活をしていて、肌の色の違う人に理解もなければ、アメリカがその文化の多様性で国を強力にしているのだと言う事実にも思い至らなかったのだと思います。ピアース氏も、その意味で前に話した先生のように、国際人と言う感覚からずっと遠い所にいる人だと言う気がしました。
十年ほど前のことになりますが、中曽根首相が「アメリカには黒人とかスペイン人などがいて、程度が低い」というような発言をしてアメリカで問題になったことがあります。文化の多様性を誇りとするアメリカでは、先程もいったように、いろいろな人がいることで国を強くしているという考えがありますから、一面だけ見て批判する外国の首相に非難が殺到したのです。それから数年のち、今度は衆議院議長の桜内と言う人が、「アメリカの労働者の三割くらいは文盲で、仕事をしない」と言ってまたまた問題になったことがありました。これも外から見ただけでアメリカを理解していないとして叩かれたのです。日本の偉い政治家の中には、こうした不用意な発言をして、海外に住んでいる日本人をきまり悪い思いにさせる人がいますが、せめて国のリーダーになるような人はもっと他の国のことを理解するよう努力をして欲しいと願わないではいられません。
アメリカには、いろいろな人が住んでいますから、一見確かにまとまりは悪いし、不便なことも少なくありません。でも一方でそれがアメリカを強くしているゆえんでもあるのです。アメリカにいても自分たちだけで固まって暮らしている人は、その事実に気付かない人が少なくありませんが、二十七年の生活で私がアメリカから学んだもの、それは、アメリカがその多様さゆえにすばらしい国であるということでした。皆さんもその意味でアメリカから学ぶことは多いと思います。なるべくたくさんのアメリカ人とお友だちになっていろいろな文化に触れてください。もちろん相手を知るためには、自分の言語や文化をきちんと身につけていることも大切ですから、補習校での勉強の意義もまた大きいと思います。そうしていろいろな人とつきあう中で、お互いを理解しあうことは、皆さんを本当の意味で国際人にすることでしょう。国際人が増えることは、人種偏見のない社会、戦争のない社会にもつながることでもありますから、これからの皆さんに大いに期待しています。頑張って下さいね。
長い間、お話を聞いて下さって本当にありがとうございました。