「日本人の子供は本当に優秀か」 (月刊海外駐在、January 1993)
日本人の子供たちが一般的に算数に勝れているのはアメリカの学校では通説になっている感がある。入って来たばかりでまったく英語の話せない子供が計算となるとめざましい程の早さでこなすのは確かにクラスメートを驚かせるし、教師にもよく誉めてもらえるのでこのことは子供自身にとっても英語の世界での出発を容易にする大きな要素となっている。高校のリージェント スカラシップやメリット・スカラシップなど成績優秀者に与えられる賞の数学部門の受賞者に日本人生徒の名前が並ぶのも珍しくない。適応への健気な努力や熱心な学習態度も教師からの賞賛のまとになる場合が多い。しかしでは、だからと言って日本人の子供たちがアメリカの学校で特に優秀とされているかと言えばそれは少し違うように思う。
「日本人は本当に優秀か」と言った問いかけは恐らくは優秀であるとされていると言う考えがその前提にあってなされたものと思われるが、私はアメリカの学校に勤務していてアメリカ人教師が日本人の子供が目立って優秀であるとしているのはプライベートにせよ耳にしたことがない。個人差を尊び、個人の能力をのばすことに重点が置かれるアメリカにはどの民族であれ一つのグループを一様に勝れているとする考えはないので日本人だけにそうした焦点が当てられないのは当然だろう。しかしそれだけではなく、アメリカには算数は駄目でも社会は飛び抜けて良いとか理科に抜きんでいると言うように科目によって成績にばらつきのある子供が少なくなく、それが個性としてとらえらていることもあって、算数の出来る子供が必ずしも頭の良い子と言った考えがないことも日本人が自ら考えるほどアメリカの学校で優秀とは思われていない一因ではないかと思う。
ではアメリカではどんな子供たちが優秀とされているのであろうか。その基準は個々によっても違いはあると思うが、例えばそれを一流大学などが求めている学生の条件に見るとすれば、受験生にはエッセイで自分の考えを明確に現す能力であるとか、スポーツ、クラブ活動、生徒会活動、学校や地域のボランティア活動への参加の度合い、面接の態度など、成績で勝れている以外にみたさなければならない条件が日本で考えられる以上にはるかに多岐にわたっている。このことはアメリカの学校教育が何を重要としているかを現しているが、学業の優秀さだけをもって必ずしも人間の優秀さを云々しないアメリカのこうした教育も日本人がアメリカの学校で特別視されない要因であろう。ではアメリカはどのような方法でそうした条件にあう子供たちを教育しているのか、その日本との大きな違いを例をあげてみてみよう。
例えばアメリカの学校の一般的な授業のやり方だ。アメリカでは周知のようにどの科目も教科書にそった一斉授業と言った形の日本のそれと違って、図書館での調査、動物園や植物園、川や湖などでの実際の観察を自分でまとめてリポートすると言った学習方法がとられることが多い。つまり、知識を詰め込むのではなく、考えさせながら学ばせると言った方法であるが、これは受け身の教育に慣れている日本人の子供たちにとって決して生易しい方法ではない。英語をマスターすることの難しさに加えて常に考えながら自らの答えをまとめてそれを文章で現さなければならないと言う難題が伴うからだ。
アメリカの学校ではまた高学年になるほど教師の講義を生徒が静聴しているいった例は少なくなり、日本的な感覚ではうるさいと思われる程授業中に生徒の活発な声が飛び交う。これは発言を通した授業への参加が奨励されているからであり、自分の意見をもたせるためのこうした訓練は既に3才の頃から始められるナーサーリースクールの「ショー・アンドテル」などの方法にも見られる。こうして絶えず自分の意見を主張する機会を与え らているアメリカ人の子供たちに対して、自発的な発言の機会を持たなかった日本人の子供は、ディスカッションとなると英語力にかかわらず参加出来ない場合が多い。日本人の子供たちにとって自分の考えをまとめて人前で述べると言う作業は英語をマスターすること以上に難しいことであるからだ。この場合子供たちが例え話しの内容をよく理解していて、自分の意見を持っていたとしても口に出さない限りそれは誰にも伝わらない訳で、授業中の「沈黙」はアメリカの学校では必ずしも「金」とはされないのである。
こうしたハードルを乗り越えてアメリカの学校で頭角を現す日本人の子供たちも確かに増えておりそれは非常に喜ばしいことだ。しかし、一般的に言えば数年で帰国してしまう子供たちがその短い期間にアメリカで優秀とされるには言葉の壁、両国の教育法の違いはあまりに大きいと私は思う。