チェコ共和国の首都プラハは、ボヘミア盆地の中部、ヴルタヴァ川沿いに位置しています。人口は全国の12%にあたる120万人で共和国最大の街です。 プラハは別名「百塔の街」とも呼ばれ、美しくたくさんの名所を含む歴史地区は1992年世界遺産に指定されました。
ボヘミア地方には紀元前200年以前からケルト人やゲルマン人が住み始めていましたが6世紀になるとスラブ人が入り、以来数多くの王朝によって統治されました。カレル橋やプラハ城内の聖ヴィート大聖堂を建て、プラハを欧州一流の都市に築き上げたのはルクセンブルグ王朝のカレル4世です(1346-78)。 この王様はボヘミア王と神聖ローマ皇帝を兼ねていました。
第一次世界大戦後の1918年にチェコスロバキアとして独立しましたが、1939年ナチス・ドイツ軍がスロバキアの独立運動鎮圧を口実に侵入し、無抵抗のままチェコはドイツにスロバキアはハンガリーに併合されました。第二次大戦は米軍とソ連軍がチェコでドイツ軍を挟み撃ちして終結しチェコスロバキアは1945年にチェコスロバキアは再び独立しましたが1948年のクーデターで共産主義国家となりました。
1960年代になると自由化の気運が高まり「プラハの春」と呼ばれたましたが、1968年8月、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍の戦車がプラハを制圧して共産主義に引き戻されました。ソ連が破壊したあと民主化デモが始まり、19
88年の暮れにはビロード革命と呼ばれる無血革命で政治体制が変わりました。その後1993年にはチョコとスロヴァキアの2つの共和国に分かれています。
1939年のナチス侵入に武力抵抗をしなかったこと、1988年の革命が無血だったことなどでチェコは建物の破壊を受けずにすみ、戦争で廃墟と化したヨーロッパの他の国に較べると歴史的な建物が多く無傷のまま残っています。モーツアルトの 短い生涯を描いた映画「アマデアス」のロケはウィーンではなくすべてプラハで行われたそうですが、さもありなんと思わせるほど、あらゆる所にいにしえを感じる街です。日本で言えば京都や奈良といった感じでしょうか。
カレル橋(Charles Bridge)
プラハは1169年より既にユディタ橋(ヴラティスラフ2世の妻の名前)と呼ばれる独自の石橋を持っていましたが洪水で破壊されたあと1357年にカレル4世の命により現在の橋が作られ1841年までプラハ旧市街とその周囲をつなぐ唯一の橋 でした。その後、ボヘミア王戴冠式のサイトパレードは、旧市街広場からカレル橋、プラハ城へ進行するのが恒例となり、この道は後に「王の道」と呼ばれるようになりました。全長520mメートル、幅10メートルの大きさで30の像が立っています。
プラハ城 (Royal Castle)
ヴルタヴァ川の西岸、フラッチャニの丘の上からプラハの市街を見下ろす歴代王の居城。9世紀にはこの場所に貴族の城が建てられていましたが、 ボヘミア王国全盛期である14世紀に完成、名実共にプラハのシンボルであり、どこからでもプラハの美しい眺めを堪能することができます。城壁に囲まれた広大な敷地には、旧王宮、大聖堂、修道院などが建っています。 王宮は1918年以降大統領府としても使用されています。
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ストラホフ修道院:1140年着工され、17世紀、18世紀に完成した修道院に隣接する図書館は壮厳な室内と膨大な蔵書(13万冊)で知られています。
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ストラホフ修道院の近くからみた聖ヴィート大聖堂とプラハの街
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プラハ城の裏門
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プラハ城第2中庭のコール噴水:手前の大きな鳥かごのようなものは井戸を防いでいるためとか。
黄金の小路(Golden Lane)
その名のとおり小路で狭い道に小さい店が並んでいます。17世紀にことの路地の家々に金細工を生業とする人が住み着いたのが名前の由来です。19世紀頃はスラム化していたそうですが、1950年代に修復され現在はほとんどがそれぞれテーマを決めた土産物やになっています。フランツ・カフカが1916年から17年にかけて数ヶ月妹と住んでいたことがあるとか 。色とりどりに塗られた可愛らしい家々は屈まなければ入れないほど入り口も狭くて小さいです。
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