Scarsdale
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プラハのユダヤ人地区 (Jewish quarter in Prague)


カフカプラハのユダヤ地区は9世紀から11世紀にかけて既に商工業の拠点としてヨーロッパでの中心的存在になっていましたが、最初のユダヤ人大虐殺は第一回の十字軍遠征(1096−99)時に起こリ、このとき生き残った人たちの多くはキリスト教への改宗を強制されています。ヴァーツラフ4世時代の1389年に起こった反ユダヤ暴動では、3000人以上のユダヤ人が虐殺されました。中世以降になるとユダヤ人にはその印を身に付けることが義務づけられ、土地所有禁止、農業・手工業の活動禁止と実質的な生計の途を奪われ、囲いで隔離されたゲットー内の居住を強制されます。(写真はユダヤ地区の生家の建物に掲げられているチェコを代表するユダヤ系の作家カフカ像)

それでもプラハはボヘミア地方の中心に位置するためそのユダヤ地区もボヘミア各地のユダヤ共同体の中心的存在となり、共同体や宗教活動が消滅することはありませんでした。16世紀末になるとプラハの居住区は神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の統治下で文化的、経済的、建築的に最高の繁栄を迎えます。ルドルフ2世は16世紀のヨーロッパ大陸で最大の富と権力を誇ったハプスブルク家の出で、ボヘミア=ハンガリー王を兼ねていましたが、彼は政庁をウィーンから現在のプラハ城に移し、ユダヤ人を迫害するよりも積極的に登用し1781年にはユダヤ人への差別を改善する法律を発布します。その後プラハのユダヤ人人口は何倍にも増え、著名な学者や思想家、裕福なパトロンや建造者などが多数出現します。

ゴーレムプラハはこの時期、ユダヤ神秘思想「カバラ」を研究する街としても重要な街になっていました。研究者の中では、16世紀から17世紀初めにかけて、プラハのユダヤ人たちから「高徳なるレーフ師」と呼ばれ、崇敬されたラビ・レーフが有名です。彼は一般的には「ゴーレム」と呼ばれる泥からできた人造人間を造りだしたと人として知られています。(「ゴーレムは昼の間はシナゴーグの中庭に座っていますが夜になるとゲットーの周囲を見回って外部からの襲撃に備えたと いわれています。)ラビ・レーフが「高徳なる」と呼ばれたのは、たんに信仰熱心なという意味合いではなく、カバラの最高の秘儀をマスターし、それを実践してみせたからと か。 チェコにおけるユダヤ居住区の状況はヨゼフ2世(1780−90)の代に大きくかわります。1848年のオーストリア憲法でユダヤ人で他の居住民と同じような権利を認められ、1850年にはユダヤ地区は市の5番目の地区、ヨゼホフとしてプラハ市に組み込まれます。プラハ市はその後不衛生だった薄暗いゲットーを一掃するため1586年に建てられたユダヤ人町役場と六つのシナゴーグとラビ・レヴの墓のあるユダヤ人墓地だけだを残して町のほとんどを壊してしまいます。 現在の街はこの時に新装なったものです。

1939年 、プラハはナチスに占領されると同時に市内に住むユダヤ人の商店には目印をつけるように指令が出され、「ユダヤ人立ち入り禁止」のプレートが各所に取りつけられました。その後、ユダヤ人全住民の戸籍簿の作成、ユダヤ人の商店やシナゴーグの閉鎖、ユダヤ教の祭事の禁止と、その締めつけは強くなっていきます。戦前プラハには5万5千人のユダヤ人が住んでいましたが(これは全市民のおよそ20%にあたります)がその3分の2以上の人たちがホロコースとの犠牲になっています。チェコ全体では9万2千人が住んでいましたが 約7万千人のチェコ系ユダヤ人がテレジン収容所に送られ、そのうちの80%がアウシュヴィッツ、マイダネック、トレブリンカ、ソビボアなどの絶滅収容所で虐殺されています。 共産主義政権下のチョコはあらゆる宗教に対して厳しい政策をとりましたのでユダヤ人に対する迫害は戦後も続きましたが、1989年の政権破壊するとユダヤ人も宗教の自由をとりもどします。今日ではプラハのユダヤ人人口はおよそ7千人と言われ、その数はじょじょに増加に向かっているようです。

近代化著しいユダヤ人地区

建物にダビデの星が装飾された建物。

ユダヤ人集会場の時計。二つあるうちの下の時計はヘブライ語で針は逆周りします。

首のない巨大な人の肩に座っているフランツ・カフカ




プラハ4(Prague 4):プラハのシナゴーグ





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