Scarsdale shopping area
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自治体のしくみ


ビレッジのなりたち


Westchester mapスカースデールは、郵便局管轄内(郵便番号が10583に含まれる地域)で総称する場合、イーストチェスター、グリーンバーグ、ニューロシェル、アーズレイ、ママロネックなどの一部が含まれ、ウェストチェスターでは最も大きいカウンティとなります。ただしビレッジ、またはタウン・オブ・スカースデールという場合は、人口約1万8千人、面積にして16平方キロ、5つの小学校と、それぞれ一校づつの中、高校を含むスカースデール学区のみを指します。ここで紹介するのは、主にそのビレッジ・オブ・スカースデールです(地図はクリックすると拡大します)。


Scarsale-villagehallアメリカの行政区分は、地方自治法の規定で、主に人口を基準に「市町村」が作られましたので、その感覚で村と言うと、人口の少ない田舎を連想しがちですが、アメリカの町や村は地域住民が制定した自治憲章を州議会州政府に申請しその承認を得て創設されますので必ずしも人口に関係がありません。スカースデールはたまたまその境界線がニューヨーク州が公共サービスを実施するための代理機関として設置しているTown(町)と一致するため、村であると同時に町とも呼ばれています。住民の生活に密接な一般事務については、「村」としてのスカースデールが、選挙事務や各種の登録など、州やカウンティからの委託事務については「町」としてのスカースデールが対応していると言うわけです。(写真はスカースデール村役場

スカースデール学区と同様、教育水準の高さで知られている隣町のエッジモンド学区(シーリープレースとグリーンベール小学校を含む地域)は、郵便局管轄ではスカースデールですので、新聞などでよくスカースデールの学校として紹介されることがありますが、地方自治体の管轄はグリーンバーグに属しており、実際にはスカースデール学区ではありません。このようにアメリカでは住民が制定した地域と州が設置している代理機関としての境界線が異なり、また郵便局の管轄も独自の方法で決められていることが多いので例えば特定学区にお子様を通学させたいと思って居られる方は、その住所が希望している学区に入っているかどうか、住まいを決定される前に自治体の役所や教育委員会にその旨を確かめられるとよいでしょう。

ビレッジの歴史
                          

「スカースデール」という名称は、ジョン・リッチベルが1660年代にシワノイ・インデアンから購入した土地を英国人商人カレブ・ヒースコートが譲り受け、1702年に正式に英国王室の所有地にした時につきました。ヒースコートがこの地域を生まれ故郷の英国ダービーシェアーにある、「ザ・ハンドレッド・オブ・スカースデール」からとって「スカースデール」と命名したからです。(因みに1701年というのは、日本では赤穂事件があった年です。)

「スカース」は、サクソン語で「ごつごつした岩」、「デール」は「谷」と言う意味で、「ハンドレッド」は、サクソン開拓地に自由市民100家族が移住したことをあらわしています。スカースデールの人口は、1712年の調査では、12名、うち7人は奴隷であったと記録されています。独立戦争当時は英国軍が一時ママロネック・ロードにある農家を司令部にしたこともあり、米英双方の戦いの中で被害も大きかったようです。アメリカが独立したあとスカースデールは自治体として動き始めます。

Waysidehouse自治体としての最初のミーティングは1783年に開かれました。村内には当時ミーティングなどで使われた建物がまだ幾つか現存していて、そのころのおもかげをしのぶことができます。スカースデール・ハイスクールの近くにあるウェイサイド・カテージがそのひとつで現在はジュニア・リーグ・オブ・セントラルウェストチェスターによって歴史的建設物として管理されています。


 
Scarsdale-historical-societyまた、1734年から1972年までカードナ・ファミリーに続いてハイヤット・ファミリーが住んでいた家は、現在 Scarsdale Historical Society (スカースデール歴史協会)によってミュージアムに指定され、村民に「カードナー・ハイヤット・ハウス」として親しまれています。この隣には1828年に建てらたクエーカー教徒の「ミーティング・ハウス」が並んでおり、ここもスカースデールの歴史を学ぶ所として貴重な存在となっています。1890年の調査では、当時の住民の生活は、農業が中心で、人口は500人強となっています。

1877年にニューヨーク市から直行の電車が開通したのに伴い、村の人口も増加しはじめ、1904年には、最初の町内会とタウン・アンド・ビレッジ市民の会の前身が組織されました。1900年には、新築や増築、取り壊しなどによって歴史的な外観と周囲との調和が損なわれることのないよう、議会の諮問委員会のひとつにヒストリック・プリザベーション(歴史保存)委員会が加えられました。

Bronxriver-pkwy1910年代には学校が次々に建てられ、1915年には、Village(人口約3、000人)として住民主権の自治体が成立しました。1924年には、国内で最初のハイウェイ、「ブロンクスリバー・パークウェイ」が開通し、鉄道と同時に自家用車でのマンハッタンへの通勤も可能になりました。
   

その後、プロテスタント系白人を中心とする高額所得者の郊外への移動が続き、人口も1950年には連邦政府の調査で13、156人と急増しました。1960年代に入ると急激な人口増加はおさまり、かわりにユダヤ系、カソリック系の移住が続き、職業では重役、医者、弁護士などの高所得者を中心とした住民が大多数を占めるコミュニティを形成していきました。1990年の連邦政府の調査では人口16、987人となっています。日本企業の海外進出に伴って1980年代の後半から、日本人駐在員家族の姿も多く見受けられるようになりました。(スカースデールの歴史、および、なりたちについては、Richard M Lederer 著、(Scarsdale Library 出版)「More about Scarsdale」とLeague of Women Voters of Scarsdale 出版、「This is Scarsdale を参考資料としました。

ビレッジの印章

スカースデール印章章盾と紋章は、スカースデール村の創設者であるカレブ・ヒースコート家のものです。盾の左側に立っている男性は、農夫でスカースデールがもともと農地であったことをあらわしています。盾の右側に立っている 男性は、この地方一帯に居住していたクアロバス・インディアンで、盾の下の数字(1701)は、スカースデールが村として始まった年です。印章は 小さくて見過ごすことも多いのですが、隣の町と境界線をなす道路わきに掲げられています。

ビレッジの行政

スカースデール村の政治決定機関であるBoard of Trusteesは住民選挙で選ばれますがどの人も2期(4年)以上つとめることはできません。メイヤーは、理事を経験した人の中から選ばれます。理事会のメンバーは、メイヤーを含めてプロの政治家ではなく他に職を持った人たち、あるいは家庭の主婦で、彼らは任期の間、村の代表として無償で、自治体の行政決定にあたります。スカースデール行政に利権に絡んだ汚職がないのは、理事会のメンバーが地区住民で、無給のボランティアであり、その任期が限られていることなどが大きな要素であると言われています。メンバーは個人的には、民主党、あるいは共和党の支持者であっても、理事会に党派色を持ち込むことはありません。

理事会は従来、各町内から選出された代表者36人とタウン&ビレッジ市民の会、自治会連合会、婦人参政権の会などの代表からなる候補者指名委員会(Citizens Nominating Committees)が推薦した候補者を最終的に住民が直接選挙で選ぶと言う方法がとられていました。住民投票と言う形はとるものの、対抗馬がいるわけではありませんので実際には選挙の前に当選者は決まっており、住民は選挙にあたってその人たちを承認すると言った方法になっていたわけです。

候補者指名委員会が推薦する人たちというのは、学校や地域社会での長いボランティア活動で地域での知名度が高く、その人となりや能力などがよく周囲に知られた人たちであることから、選挙運動を行う必要がなく、毎年3月の選挙の時期(アメリカでは大統領選、上院、下院選を始め地方政治も11月に選挙を行うところが多いのですがスカースデールでは今も3月です。)には、投票の前に新聞で候補者が発表されるくらいで、候補者どうしの討論も、ポスターもない静かな選挙が繰り広げられてきました。そして、議会が始まって以来70年以上にわたって続けられてきたこうした対抗馬のない選挙は、無理な公約をしたり、汚職のおきない理想的なやりかたとして、住民に誇りとされてきたのです。

ところが10年ほど前、こうしたやりかたは、密室的で、流動的な現代社会にそぐわないとして、実際の選挙に候補者指名委員会を通さず、自分たちで政党を作りその中から立候補者を出す住民が出てきました。最初の年は、さんざんな結果で終わってしまいましたが、数年後、はじめて一人当選者を出したことから、それまでの一党政府に終止符が打たれることになり、従来のCitizen Party に新しい政党であるVoters’ Partyが加わりました。Voter’s Partyからの立候補者もスカースデール住民であり、無給で村のために自分の時間を提供したいと思っている人たちですので、理事会にかける熱意に変りはありません。しかし、候補者指名委員会を通したこれまでの選挙の方法が理想的であると考える多くの住民にとって、大衆受けする魅力のある人でも地域に対する貢献度が少ない(と、思われる)人材を村の代表にすることには大きな抵抗がありました。そこで、Citizen partyは、これではならじと、翌年の選挙では、全住民に向けてアピールをはかりましたので翌年から7名の理事(メイヤーを含めて)全員が従来どうり再びCitizen Partyから選出されています。

理事会は、予算、条例、税率に関する審議、採択など、村の重要案件を決定し、実際の運営をプロとして雇ったビレッジ マネージャーに任せます。ビレッジ・マネージャーは、村役場の長として、職員の監督にあたり、理事会と住民のパイプ役として動きます。理事会は、また意志決定委員会( decision making boards)と、諮問委員会(advisory councils)メンバーを住民から指名し、それぞれの委員会と密接な連絡をとりながら、村を運営します。定例ミーティングは、仕事のある一般の住民も参加出来るよう、毎月第2、第4火曜日の夜8時から行われ、住民はその様子を村内のケーブルテレビで見ることが出来ます。

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