Scarsdale
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ワルシャワ 2(Warsaw 2)

1685年トルコ軍を負かし、軍人から王に選出された英雄ヤン3世ソビエスキの像

ヤン3世ソビエスキ像の立っている橋から見た水上の宮殿

フレデリック・ショパン像

柳の下に座って自然からのひらめきに耳を傾けるショパン。

ミスレヴィッチ宮殿 (Myslewicki palace)

公園内の大きな池の脇に王の夏の離宮として建てられた宮殿です。

ミスレヴィッチ宮殿内。夜はここで行われたショパンの演奏を聴きました。

ショパンを演奏したピアニストのマリア・シルヴァさん。後方には小さなショパンの像がみえます。



ワルシャワ蜂起記念碑    
    

ワルシャワ蜂起記念碑ワルシャワは1938年ドイツに侵攻され、ドイツとポーランド分割の密約を結んでいたソ連軍が東部地域に侵攻したため1941年までポーランドのほとんど全土が分割占領されました。 しかし、1941年にドイツ軍がソ連支配圏に侵攻して勝利をあげ、その結果ポーランドはドイツの支配下に置かれます。ポーランドは厳しいドイツ占領行政のもと反ドイツ的なポーランド人たちに弾圧が加えられたほか、中世のポーランド王国のもとでヨーロッパやロシアから数多く移住し、市民の3分の一を占めていたユダヤ人は徐々に虐殺され、1943年のゲットーの反乱 が鎮圧されたあとはユダヤ人コミュニティ自体がなくなってしまいます。その一年後の1944年にワルシャワ市民はソ連軍を後ろ盾に蜂起を起こしますが、期待していたソ連軍はヴィスワ川の向こう、プラガまで来ていたのに援助せず、結局蜂起軍は63日で力つきてしまいます。その蜂起の代償は大きくワルシャワは20万の市民と町中の大半の建て物が全壊してしまいました。(ワルシャワ発起は映画、「戦場のピアニストや最近私が翻訳、出版した「死のかくれんぼう」にも詳しく描かれています。)1989年市民蜂起45周年を記念して蜂起軍が武器を捨てた所に建てられたこの記念碑は旧市街から歩いて5分ほどのクラシンスキ公園内にあります。像はバリケードを守る兵隊たちと地下水道に入る二つのグループに分かれています。地下水道は蜂起の間遠くにいる他のグループと連絡を取る唯一の方法でした。

ワルシャワ蜂起に参加した少年兵ドイツ軍による空爆や破壊のすさまじさは日本の戦中、戦後を思わせ(非常におぼろげながらではありますが私にも空爆の恐怖の思い出があります。)あらためて戦争の悲惨さを思わずにはいられませんでした。ワルシャワ市民蜂起では10代以下の子どもたちも手に手に武器を取りドイツ軍に立ち向かったとされています。左の写真は、旧市街に立っている少年兵の碑。






ワルシャワ中央駅周辺



文化科学宮殿(Palace of Culture and Science)

文化科学宮殿はソ連の指導者だったスターリンによる贈り物で、1952年から4年間にわたって建てられました。周囲の建物にマッチしないセンスがない建築物としてワルシャ市民に最も評判の悪い建物だったとか。共産主義が破壊した時、とり壊す話もあったようですが、お金がかかりすぎるためにそのままにされ、現在では様々なオフィスが入り、周囲に立ち並び始めた高いビルディングの影響もあって町の景観としてすっかり馴染んでしまっているようです。

文化科学宮殿

文化科学宮殿夜景

近代的なビルがずらりと並んでいます。

近代的なワルシャワ中心地の町並み



ワルシャワ 3





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