ワジェンキ公園は、 スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ王が1766年から30年の歳月をかけて完成させたところでワルシャワ中央駅から約3キロのところにあります。王の死後、ロシアに売却されましたが、 1918年にポーランドが独立したのち国家の所有となりました。第二次世界大戦でワルシャワがナチス・ドイツ軍に占領されると、宮殿の美術品はほとんど持ち去られ、宮殿そのものも放火で完全に破壊されてしまいます。現在のものは戦後立て直されたものです。 ここはヨーロッパ中で一番美しい公園と言われているそうですが、さもありなんと思わせるほどの景観でした。
ワルシャワ蜂起記念碑(Memorial of the Warsaw Uprising)
ワルシャワは1938年ドイツに侵攻され、ドイツとポーランド分割の密約を結んでいたソ連軍が東部地域に侵攻したため1941年までポーランドのほとんど全土が分割占領されました。
しかし、1941年にドイツ軍がソ連支配圏に侵攻して勝利をあげ、その結果ポーランドはドイツの支配下に置かれます。ポーランドは厳しいドイツ占領行政のもと反ドイツ的なポーランド人たちに弾圧が加えられたほか、中世のポーランド王国のもとでヨーロッパやロシアから数多く移住し、市民の3分の一を占めていたユダヤ人は徐々に虐殺され、1943年のゲットーの反乱
が鎮圧されたあとはユダヤ人コミュニティ自体がなくなってしまいます。その一年後の1944年にワルシャワ市民はソ連軍を後ろ盾に蜂起を起こしますが、期待していたソ連軍はヴィスワ川の向こう、プラガまで来ていたのに援助せず、結局蜂起軍は63日で力つきてしまいます。
その蜂起の代償は大きくワルシャワは20万の市民と町中の大半の建て物が全壊してしまいました。(ワルシャワ発起は映画、「戦場のピアニスト」や最近私が翻訳、出版した「死のかくれんぼう」にも詳しく描かれています。)
1989年市民蜂起45周年を記念して蜂起軍が武器を捨てた所に建てられたこの記念碑は旧市街から歩いて5分ほどのクラシンスキ公園内にあります。像はバリケードを守る兵隊たちと地下水道に入る二つのグループに分かれています。地下水道は蜂起の間遠くにいる他のグループと連絡を取る唯一の方法でした。ドイツ軍による空爆や破壊のすさまじさは日本の戦中、戦後を思わせ(非常におぼろげながらではありますが私にも空爆の恐怖の思い出があります。)あらためて戦争の悲惨さを思わずにはいられませんでした。ワルシャワ市民蜂起では10代以下の子どもたちも手に手に武器を取りドイツ軍に立ち向かったとされています。左の写真は、旧市街に立っている少年兵の碑。
文化科学宮殿(Palace of Culture and Science)
文化科学宮殿はソ連の指導者だったスターリンによる贈り物で、1952年から4年間にわたって建てられました。周囲の建物にマッチしないセンスがない建築物としてワルシャ市民に最も評判の悪い建物だったとか。共産主義が破壊した時、とり壊す話もあったようですが、お金がかかりすぎるためにそのままにされ、現在では様々なオフィスが入り、周囲に立ち並び始めた高いビルディングの影響もあって町の景観としてすっかり馴染んでしまっているよう
です。
|
|
|
|
|
TOP ワルシャワ3(Warsaw 3) 中欧の旅(Central Europe)