Scarsdale station area
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ブダペスト3 (Budapest 3)

プダペストのユダヤ人地区 (Jewish quarter in Budapest)

ユダヤ人が最初にハンガリー地方にやってきたのは3世紀の頃で、比較的好意的だったトルコの支配から、冷遇されたハプスバルグ王朝の時代などの変遷を経て1840年にはその数は30万に達していました。1867年になるとハンガリア国会でユダヤ人に対する締め付けが解放され様々な分野にユダヤ人が台頭しはじめます。

第2次大戦前ブダペストには20万余のユダヤ人が住み,125のシナゴーグがありました。こんな状況の中でも宗教や文化の違いどからくるアンチ・セミティズム(反ユダヤ思想)は常にあったようで表面だってユダヤ人として生きている限りキリスト教社会で完全に受け入れらることはいつの時代にも難しいことだったようです。レイフ・ファインの映画、[太陽の雫](英語では、SUN SHINE。1999年製作)は、3代にわたるハンガリーのユダヤ人一家の話ですが、この国におけるユダヤ人の立場がよく描かれいています。

オーストリア・ハンガリーの2重帝国(19世紀の終わりから20世紀初頭)の判事として活躍していた長男(イグナツ)は昇進のためにユダヤ風の名前を捨て、その息子(アダム)はフェンシングで花を咲かせるためにカトリック教徒に改宗します。彼はオリンピックで金メダルをとり国民の英雄になりますが、最後には強制収容所に送られ撲殺されてしまいます。父親を目の前で殺されたその息子(イヴァン)は戦後警察官になってファシスト狩りに参加しその後は共産党員になりますが、またしてもハンガリーに台頭した反ユダヤ主義で心ならずもアウシュヴィッツ強制収容所の生存者だったかっての上司を死に追いやることになってしまいます。良心の呵責に責められた彼はその後民主化運動に身を投じ、ハンガリー動乱の鎮圧で捕らえられ3年の刑に服します。映画はイヴァンが祖父が改名した名前を捨て堂々とユダヤ人として生きて行くことを決心することで終わっています。

ユダヤ人に対するしめつけはハンガリーではナチス占領のはるか前、1920年にユダヤ人がつける職業を制限すること、財産を没収することができるなどの反ユダヤ法の制定ではじまっています。独ソ戦が始まると、ハンガリーも枢軸国の一員としてソ連に宣戦布告しますが、枢軸国が劣勢となった戦争末期の1944年にドイツとの断交で連合国への寝返りを企てます。しかしその試みは失敗し、その後、ハンガリーは親ドイツの矢十字党がクーデターによって権力を握ったことで迫害はより熾烈となります。矢十字党は一時毎晩5、60人のユダヤ人をドナウ川に投げ込んで溺死させた(総勢5千人)といわれています。

1944年3月ナチスに占領tされるとハンガリー政府はすぐ各地にゲットーを作った他、5月から7月まで約2ヶ月の間に国全体で約43万人のユダヤ人をアウシュヴィッツ/ビルケナウ絶滅収容所へ送りました。ユダヤ人の他にはジプシーの人たちも大多数が殺害されまています。

ドハーニ街シナゴーグ(Dohány utcai Zsinagóga)

戦前ユダヤ人の多くはドハーニ街シナゴーグを中心とする中央部第7区(エルジェーベト街)に住んでいました。ドハーニ街シナゴーグはヨーロッパで最大、世界でもニューヨークのテンプル・エマニュエルに次いで大きく現在も活動しているシナゴーグです。ここは改革派ですが、この近くには正教徒のシナゴーグもあり、黒装束に身を包んだ人たちの姿を目にします。ドハーニ・シナゴーグに併設するユダヤ博物館ではブダペストにおけるローマ時代からのユダヤ教徒の生活・歴史・芸術・宗教に関する展示などを行っています。(博物館は「シオニズム」の創設者、テオドール・ヘルツェルの生家のあった所に建てられています。)



ドハーニ・シナゴーグの外観

玉葱型の2本のドームが特徴的です。1854年から59年にかけて建設されました。

シナゴーグの内部

3000人を収容できるとか。改革派教会なのでオルガンもあります。

シナゴーグの裏にあるホロコースト記念碑

石碑にはラウル・ワレンバーグをはじめブダベストのユダヤ人をホロコーストから救った人たちの名前が刻まれています。

シナゴーグの裏にあるホロコースト記念碑2

金属製の柳の木のような碑には、ホロコーストで死亡した人たちの名前がそれぞれの「葉」に刻み込まれています。この彫刻は逆さに見るとユダヤ教の燭台、メノラを形どっているとか。






ラウル・ワレンバーグ (Raoul Wallenberg Memorial)


1944年7月、スウェーデン外交官としてハンガリーに赴任したワレンバーグは外交官の立場を最大限に利用して「セーフ・ハウス」と呼ばれる家を各地に作って外交官特権でユダヤ人をそこに住まわせたりスウェーデン名義の保護証書を大量に発行して10万人にも及ぶユダヤ人の救済に尽力しました。ナチスの敗戦が濃厚になった頃には秘密警察のアイヒマンがユダヤ人をオーストリア国境まで死の行進をさせますが、その時もワレンバーグは行進を列車で追いかけ約4千人をブダペストに連れ戻しています。1945年1月19日にソ連によりスパイ容疑で逮捕された氏はロシアの刑務所に収容され、その後多くの人たちの必死の捜査にかかわらず、行方は分かっていません。氏は、その後イスラエルから「諸国の中の正義の人」賞を送られた他、アメリカ、カナダ、イスラエルで「名誉市民」となっています。

ラウル・ワレンバーグ像

この公園の周辺はかってワレンバーグがユダヤ人に提供した[セーフハウス]が並んでいた所だそうです。ガイドの話では今も毎日この碑にお祈りに来る人がいるとか。

ワレンバーグ像

大蛇と闘う勇敢な若者はワレンバーグ氏を象徴しています。

ワレンバーグ像

10万人のユダヤ人をホロコーストから救った功績がたたえられています。



ブダペスト・ホロコースト・メモリアル・センター (Budapest Holocaust Memorial Center)

ホロコースト・メモリアル・センターは、ユダヤ人を強制収容所に送ってから60年目の2004年5月にシティ・センターの近くにある古いシナゴーグ(かってここはユダヤ人を一時抑留して置く[インターンメン ト・キャンプとして使われていました。)を改装して建てられました。ハンガリーでは社会主義時代にはホロコーストについての議論が許されていなかったため、人々は罪の意識を問われることすらありませんでしたが、0U(ヨーロッパ連合)への参加を前に、政府は過去の過ちについて正面から向き合う決意をしたようです。設立当初は、場所がかってのゲットーでなかったこと、博物館を神聖なシナゴーグに建てることなど、様々な異論があったとのことですが、今ではプダペストの観光ルートとして(特にユダヤ系の観光客に対して)定着しているようです。


ミュージアムの正面

内部の展示

入り組んだ廊下や薄暗い部屋はホロコーストの[闇の世界」をしのばせます。

シナゴーグ内部

祭壇の前に設置された永久提示物には犠牲者の名前が刻まれています。

シナゴーグ内部

ガラスでできた説教壇には犠牲者の名前や写真、略歴などが刻まれています。




ハンガリーには現在10万人のユダヤ人がいてそのうちの8万がブダペストに住んでいると言われています。


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