Scarsdale
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ホロコースト追悼の日:ヨム・ハ・ショア   2006年5月

mイスラエル議会は1951年、ホロコースト犠牲者を追悼する日、「ヨム・ハ・ショア」をパスオーバーの7日後、ハッサンの月の27日(4月か5月に相当)と決めました。ホロコースト(「丸焼きの供え物」と言う意味)とは、周知のように第2次世界中ナチス政権下のドイツとその占領地域で1933年から45年まで12年にわたって組織的に行われたユダヤ人大量虐殺のことです。「ヨム・ハ・ショア」を中心とした数日間は毎年世界各国のユダヤ人コミュニティで犠牲者の霊を弔う日として、またポーランドのゲットー(詳細はこちら)で最後までナチスに抵抗した人たちの勇気ある行動を称える日として、様々な催しが行われています。

今年は4月26日がその日にあたり、我が家の属するユダヤ教会でも28日の金曜日の夜、恒例の追悼の式が催されました。その後、5月7日(日曜日)には、隣町のホワイトプレインズにあるガーデン・オブ・リメンバランス(追憶の庭園)でも「過去に学び将来に希望を」と題して例年どうり追悼式が行われました。

ホワイトプレインズの「追憶の庭園」は、歴史の事実を風化させまいとウェストチェスター周辺のホロコースト生存者やカウンティ関係者によって1992年に作られた公園です。カウンティ・オフィスの隣にあり、都心の喧騒の中でひっそりとした静かなたたずまいを見せています。庭園には6百万の犠牲者をあらわすシンボルとしてヘブライ語の「ボブ」〈6という数字でもあるため〉という字を模どった門があり、周囲をワシントンのベトナム記念碑のような形の墓標で囲まれていて、これにはヨーロッパ各地の26の強制収容所の名前が刻まれています。

追悼では年々少なくなっていく生存者を代表して今年はブッヘンワルド収容所で終戦を迎えたニューロシェル在住のマーベン・フェダーブッシュさんが壇上にたち、自由の身になったときはじめて収容所内で行われた「パスオーバー」がいかに感激的であったかなどを語りました。その後はルワンダで起きた百万人とも言わている集団殺戮で家族をなくした20歳の女性、ルガサグフンガさんが自分の悲惨な体験をもとに偏見のもたらす恐ろしさを訴えました。ホワイトプレインズ市長やウェストチェスター・カウンティの司法長官は、「人種偏見を阻止する」ためにウェストチェスターが取り組んでいる対策などについて話しました。

ユダヤ人がホロコーストを風化させてはならないとするのは、犠牲者を悼む思いもさることながら、そうすることで他のどの人種にも同じ苦難を繰り返させてはならないとする信念があるからです。先日スーダンのダルフールで今も続いている集団虐殺を見過ごしているとして政府に抗議をするためワシントンのデモに参加した娘は、「まるでユダヤ人の催しのようだった」といっていましたが、こうした所にも彼らの姿勢があらわれているように思われます。

最近イランの首相が「ホロコーストはなかった」と言う発言をしてまたホロコースト否定論が息を吹き返してきた感があります。何千、何万という生存者の証言があり、あらゆる物的証拠が残され、ドイツそのものがその事実を認め、ホロコーストを否定することを法律で禁止しているにかかわらず、公職にある人のまたぞろのこうした発言は心ある人たちを震撼とさせるに十分なものでした。

ホロコーストがあったか、なかったかなどという議論は、当のドイツでさえそれを認めている以上、意味がないと思うのですが、それでも否定論があとをたたないのは、なかったとする方が「ユダヤ陰謀説」を作りあげたり、ホロコースト生存者を多く受け入れて独立国家となったイスラエルの違法性を主張するのに都合がいいからでしょう。

日本でもウェブサイトを見ると否定論者が少なくないようです。ニューヨークに住んで生存者に接する機会の多い者としては、他者の痛みを全く理解しようとしないこうした人たちの空想上の議論には怒りより悲しみを覚えないではいられません。ホロコースト否定論者の言っていることは、唯一の被爆国として過ちを誰にも繰り返させないために原爆の恐ろしさを訴え続けている日本に対し、どこかの国の人がしたり顔で「日本に原爆が落された事実などなかった、写真はのちになって作られたものだ」などといっているようなものだと思うからです。

「ヨム・ハ・ショア」の追悼式の終わりは、生存者を先頭に「追悼の庭園」に作られた門〈通常は収容所の鉄条門として鍵がかかっています〉を通って参加者が全員向こう側に向かって歩きました。門のむこうは、自由と希望をあらわしているのだそうで、私もゆっくり歩きながらひととき収容所を出たときの生存者の喜びに思いをはせたものでした。

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