息子のバール・ミツバ (OCS Jan.1, 1992)
私たち夫婦が親と呼ばれるようになってから今年で15年目になる。九州の一地方都市で、夏には蜻蛉やめだかを追ってはだ しで飛び回り、外国人との接触など皆無だった私自身と、人種のるつぼと言われるニューヨークでユダヤ文化を背景にアメリカ人として育った夫の子供時代との違いはかなり大きいが、我が家の子供たちをとりまく環境はまた両親のそれとはまったく異なるものである。その違いはこの15年私達を折りにつけて戸惑わせ、あわてさせ、悩ませたりもしたが、総じて言えば、そのために学んだこと、喜ばされたことの方が数段に多かったように思う。特に母親としてのユダヤ文化の継承と言った面では、その知識がゼロであった私には全てが新しく学ばなければならないことばかりで、子供たちについてユダヤ文化やヘブライ語を勉強する機会が与えられたのは実に楽しいことだった。残念ながら子供たちと同じように知識を吸収するには母親の頭は古びてしまっているので、最近では子供たちに教えてもらうことも多くなってしまったが、息子の場合は2年前バール ミツバの儀式をうけた頃からその傾向が強まってきたように思う。バール ミツバの準備のための集中学習は母親を知識の上で徹底的に引き離してしまうに十分なものだったようだ。
バール・ミツバとは、ヘブライ語で「神の戒めを守る息子」という意味で、いわゆる男子の成人式である。この儀式は通常男の子の13回目の誕生日の次の安息日に行われ、シナゴーグで会衆を前にトラー(教典)の一部をヘブライ語で朗読する。女子の場合は、バス ミツバと呼ばれ、成人となる年齢は12才である。バール・ミツバやバス・ミツバの儀式のやり方は正統派、保守派、改革派のいずれに属しているかによって、またそれぞれのシナゴーグによってもかなり差があるが、我が家がメンバーとなっているシナゴーグ(改革派)では、通常のユダヤ人学校の授業とは別に半年ほど一週間に一度ラビとカンターの個人指導を受けることになっている。バール ミツバを終えたことにより、息子はユダヤ人社会から大人としての出発を認められたのであり、その代償に彼自身は戒律に従った責任ある大人としての生き方を求められることになったのだった。日本でも昔は15才頃から髪形や服を変え、貴人の場合は童名を廃し、新たな名前や位を与えると言ったことが行われていたようだがバール・ミツバは日本で言えばその元服にあたるものである。
息子は儀式のあと、会衆に向かって次のようなスピーチをした。スピーチの内容はラビに相談して決めたと言うことだった。
「ユダヤ人としての誇りはあらためていうまでもないが、自分の中の日本も非常に大切に思っている。こうした自分にとって日本で氾濫しているという反ユダヤの本は非常に気になるものだ。双方の理解のために自分に出来ることがあればしたいと思うが大人としての道を出発するにあたって、まずは自らが誰にも偏見を持たない人間になるよう努力したい。」彼のスピーチを耳にしながら私の脳裏を横切ったのは、日米戦争中の一世や二世の方々の精神の葛藤に対する思いであった。自分の性格に大きな影響を与えている二つの文化の衝突はいかに心を痛ませる出来事であったろうか。息子の思いを通じて、私にはその痛みが人知れず分かるような気がしたのだった。そして他者に対する偏見のない大人に成長したいとする息子の誓いは私たちはこれ以上は感じることの出来ないような喜びと誇りを感じさせた息子の中でその彼の背後にある文化の多様性が大きな精神的財産となりつつある事がひしひしと感じられたからである。
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サンキュー・マザー(姑、アンの死): OCS, Jan.1, 1996
1995年の新年は、元旦の結婚式に続いで2日後には葬式という、慌ただしい年開けとなった。孫の結婚披露宴が終わるのを見届けるように、姑のアンが入院先で息をひきとったからである。フロリダを数年前に引き払い、長男夫婦の住むアトランタへ移り住んでいたアンは、一ケ月ほど糖尿病の合併症で入院していたが、結婚式の一週間前突然昏睡状態に陥ちいり、意識を回復しないまま亡くなった。彼女が、それまでも入院してはすぐ元気になることを繰り返していたため、状況を少し軽くみすぎてしまったことや、アトランタへはどのみち姪の結婚式に出席するため年末には家族で出かける予定にしていたことなどから 彼女の意識のあるうちに病床に駆けつけなかったことが悔やまれたが、それでも一週間、彼女と一緒に過ごす機会が与えられたのは幸運だったと思う。
私たちは、アトランタ滞在中、結婚式に出席した時以外はほとんどの時間をアンの病床に詰め、まったくの一方通行ではあったが、彼女に語り掛け続け、時に彼女の好きだった歌をみんなで歌ったりした。刻々と彼女の体に忍び寄る死の影を目にするのは、別れの悲しさを共に分かちあえない以上に辛いものがあったが、私はその時になって彼女のことを何の抵抗もなく、「マザー」と呼びかけている自分に気付いていた。子供が生まれてからは「グランマ」と言う都合の良い呼び名が出来たものの、彼女を直接「マザー」とはどうしても呼べなかった私にはこの変化は自分ながら驚きだった。
「もう遅いのかも知れないけれど。聞こえているのなら聞いてね。」と私は彼女の耳に語り掛けた。「マザー、あなたはあなたの息子だけではなく、私にとってもすばらしいお母さんでした。そして、子供たちにとってはかけがえのないすてきなグランマでした。ありがとう、マザー。 本当にありがとう。
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