Scarsdale
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杉原領事とリトアニア    (OCS, Oct.4, 1991) 
                      
杉原領事OCS五月十七日号に掲載されたウエンディ・コール氏の「日本人の恩に報いたブルックリンのユダヤ人」、興味深く読まさせていただいた。リトアニアにおける杉原千畝領事の業績がこのような形で多くの人に称えられることはすばらしいことと思う。ただ記事の中に杉原領事の未亡人に直接うかがった話やご本人の著書などから少し事実と違うのではないかと思われる部分があること、また外務省の領事への処遇について疑問を感じる点などがあるのでそれについて述べてみたい。

先ず事実と違っているように思われる箇所については昨年夏杉原幸子夫人を鎌倉にお訪ねした際 (詳細はこちら)にいただいたご本人の回想録、「六千人の命のビザ」から、お読みになっておられない方のためにそのあらすじをかいつまんで紹介することから始めたいと思う。


「六千人の命のビザ」 (杉原幸子著)

「1940(昭和15)年、7月27日早朝、リトアニア国、カウナスの日本領事館は、突然押し寄せた群衆に建物の回りを取り巻かれる。代表として中に招きいれた数人の話から群衆がポーランドからナチスの手を逃れてきたユダヤ人であり、日本通過のビザを要求して集まってきた人達であることが判明する。彼らはオランダ領キュラソーを最終目的国とするビザを所有しており、キュラソーに行くためには日本を通る以外に方法がないとして日本通過ビザを求めてきたのだった。キュラソーへのビザは、オランダ領事館によって発行されたものであったが、これはカウナスに所在した各国領事館の中で唯一ユダヤ人に同情的であったオランダ領事がソ連、日本経由でヨーロッパからアメリカ、パレスタイン(イスラエル)などの第三国へ脱出したいとする彼らの訴えに対して自領のキュラソーを最終受入国として許可したということだった。ともあれユダヤ人にとっての先決問題は何としてもヨーロッパを逃れることであり、日本通過はその為に残された唯一の手段だったのである。

彼らの訴えを聞いた杉原領事は、翌日外務省に事情を説明する緊急電報を送る。領事はもちろん日本政府がナチス・ドイツと日独防共協定を結んでおり、日本領事館がユダヤ人にビザを発行したとなればそれはドイツへの敵対行為となりかねないことをよく承知していた。しかし人道上彼らのおかれた状態を見過ごすことはできないとしてビザ発行の許可を求めたのだった。それに対する外務省の返事は「否」。理由は大量の外国人が日本国内を通ることは治安上望ましくないというものあった。それでも領事は諦めず、許可の申請を続ける。

その間リトアニアは八月三日、正式にソ連に併合されるが、日本領事館にはそれより少し早くからソ連の退去命令が出ており、杉原領事は外務省からも「早く退去するように」との指示を受けていた。家族や身の安全を考えれば、領事はそこでそのまま指示通り領事館を閉鎖し国外へ出ればよかったのだった。しかし、外務省からの三度目の「ビザ発行ならぬ」の回答は領事に自らの権限でビザを発布する決心をさせる。そのことは外務省を辞めさせられるかもしれないだけではなく、ドイツへの敵対行為としてゲシュタポに命さえ狙われかねない危険性も含んでいた。それゆえ5才を頭に3才、嬰児の3人の幼い子供たちの父親である領事にとってそれは苦悩を伴わずにはいられない決心であった。しかし、若い頃にロシア正教の洗礼を受けた領事には死の恐怖にさらされている人々を前にして平然と自分たちだけが立ち去ることなどとても考えられないことだった。領事は幸子夫人に理解を求めていう。「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。」

翌朝早く、領事はカウナスのソ連領事館にでかける。日本へ行くためにはソ連領内を通らなくてはならず、ソ連の通過許可証が おりなければ日本ビザ発行の意味がなくなるからである。ソ連からはすでに日本領事館の退去命令が出ていたこともあり、こちらの頼みを聞き入れてくれるかどうかが懸念されたが、ソ連領事は意外に快く杉原領事に賛同する。領事のロシア語がロシア人とまったくかわらないない程流暢であったことも交渉をスムーズにした要素であったようだ。

その日から三週間あまり領事の一日は早朝から深夜までビザの発行で明け暮れる。カウナスの日本領事館はドイツやソ連の情報収集を主な仕事として杉原領事の赴任に伴って十ヶ月前に開設された出先機関であり、職員は領事の他は現地採用の事務員とボーイという小規模な事務所であったため、数千人分のビザを限られた期間にしかも全て手書きで発行しなければならなかったことは領事にほとんど眠る時間すら与えなかったのだった。

8月28日、ソ連からの厳しい退去命令に続き、外務省からも「即刻ベルリンへ行け」という緊急電報が届く。その命令には有無を言わせない強さがあり、領事もついに引き揚げを決意する。しかしそのまま汽車の旅に出るにはあまりに疲労がひどすぎ、一家はひとまずホテルに逃避する。ユダヤ人はホテルにも押し寄せてくるが、この時点では領事印や用紙などの公品はすでにベルリンへ送った後であったので領事はこののち正式なビザに代わって通過許可証を発行する。 

9月1日、ベルリン行きの列車を待っているカウナス駅にも人々はビザを求めてやってくる。領事は汽車が出るまで身を乗り出して許可証を書き続けるが、ついに最後の時がやってくると、苦しそうに「許して下さい。私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈ります」といいながらホームに残されたユダヤ人に深々と頭を下げる。許可証を手にした人たちが泣きながら列車に向かって、「スギハアラ、わたしたちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」とい叫んでいる声を耳にしながら一家はカウナスをあとにする。

杉原領事がのちに本省へ報告したビザの発行数は正式には二千九十二枚とされているが、途中からビザに番号をつけるのを止めてしまったことや家族の場合子供たちを連れていたこともあって実際に日本を通って各国へ逃れていった人たちは5千ー6千にものぼったと言われている。

ベルリンでは、外務省の命令に逆らったことに対しては予想に反して誰からも何も言われない。命を狙われるのではないかと心配したゲシュタポについては日本、イタリアとの三国同盟を調印し、ハンガリー、ルーマニアへ侵攻していこうとしていた矢先であったドイツにはカウナスの出来事など注意を払ってはおれなかったらしいことも幸いして、それも杞憂に終る。領事はベルリンに着くと、その足でプラハでの勤務を命じられ、半年後東プロイセン州所在地のケーニヒスベルグへ、その1年半後にはルーマニアの首都ブカレストの公使館に派遣される。ブカレストでの仕事は日本が敗戦となった三日後ソ連軍によって収容所に送られるまで三年続く。その後いくつかの収容所を経たあと、一家がようやくの思いで故国にたどりついたのは昭和22年4月のことだった。

杉原領事が外務省に呼ばれて、退職を勧告されたのは帰国間もなくのことである。理由はカウナスの件の責任を問われてと言うものだった。カウナスからベルリンへ向かった時点で領事は解雇を覚悟していたのにかかわらず、その件については何の咎めもうけなかった。そればかりかその後も何ごともなかったかのように各地に派遣させながら、帰国そうそう退職を勧告するという外務省のやりかたに夫人は納得のいかないものを感じる。戦禍のヨーロッパで国のために全力を使い果たして帰ってきた夫の無念さを思うにつけ夫人の胸中には言いたい思いがうずまくが、領事はそれについて一言の弁明も抗議もせず勧告を受け入れる。

10年以上外交官として外国で生活をしてきた杉原氏にとって戦後の日本での再出発は苦難に満ちたものだった。生活は困窮を極め、食事にも事欠く日が続く。そんなある日、カウナスで生まれ、当時7才になっていた末っ子の三男が、頭痛を訴え、数日も経ないうちに小児癌で短い命を終えてしまう。生活の苦しさの中で満足な葬式も出してやれず、一家にとって辛い日々が続いた。
そのうちにロシア語だけではなく英語も堪能だった杉原氏は、進駐軍のPXのマネージャーと言う仕事につく。しかし、二年ほどでPXはなくなり、その後10数年はアメリカの貿易会社、NHKのソ連向け放送のための翻訳放送、ロシア語の教授など種々の職業を転々としながら生計をたてる。昭和35年からは、貿易会社のモスクワ事務局長としてモスクワに単身赴任することになり、15年後に75才で引退するまで家族のもとへ帰るのは一年に1、2回という生活が続く。

カウナスで会ったユダヤ人のその後について夫人が夫の杉原氏から意外なニュースを耳にしたのは、カウナスの夏から28年を経た昭和43年8月のことだった。その時たまたまソ連から帰国していた氏にイスラエル大使館から電話があり、出かけて行くと、かってビザを発行したユダヤ人の一人が、今はもうボロボロになったそのビザを見せて、それで日本を通過し、無事にパレスタインに逃れたこと、同じ方法でヨーロッパを脱出した他のユダヤ人達と戦後ずっと氏を探していたと言うのであった。外務省へは何度か問い合わせをしたのだが、いつも返ってくる返事は「該当者なし」であったという。今回やっと連絡がついたのは、彼らのその後を知りたいと思った氏がその少し前にイスラエル大使館へ赴き自分の連絡先を残してきたからということだった。夫妻はこれまでの苦労が無駄ではなかったことを知る。

この年、夫妻の4男は公費留学生としてイスラエルのヘブライ大学へ招かれる。昭和60年には領事はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授与される。これは、イスラエル国政府がユダヤ建国に尽くした外国人に与える勲章で、ノーベル賞にも値するイスラエルの最高勲章であった。その翌年にはエルサレムの丘に領事の顕賞碑が建立される。カウナスで「私たちはあなたを忘れません」と叫んだ言葉をユダヤ人は確実に覚えていたのであった。杉原領事の業績はその後も多くのアメリカやイスラエルのユダヤ人に団体によって称えられ続けているが、本人は昭和六十一年、家族に見取られながら永眠されている。没年86才。  
  
コール氏の記事について

さて、コール氏の記事では杉原領事がビザを発行したのは1941年春とあるが実際は40年の夏である。歴史の変遷の上でも杉原領事を語る上でもこの1年の違いは大きいと思われるので特に明記しておきたい。また、領事が3千5百人のビザを発行してユダヤ人たちを上海に逃避させることができたとなっている点については、杉原領事がビザを書いたのは日本を通って第三国へ脱出するための通過ビザであって、目的地を上海としたのではない。ユダヤ人の避難民は敦賀から神戸に向かい、神戸に滞在している間に知人や親戚を頼ってパレスタインやアメリカへと渡っていったのである。ミラー・イエシバの人たちのように日本滞在中に様々な理由から第三国のビザがとれず、最終目的地のなくなったユダヤ人が神戸から上海に送られたはのはその後の日本政府の決定によるものだった。

次に氏はビザ発行後杉原領事は当然のこととしてただちに外交官の地位を剥奪されたとしているが、実際はその後も敗戦後収容所に送られるまで領事としてヨーロッパの各地で活躍されいる。また、日本に帰ってからの領事が隠遁生活をされたというくだりは、帰国当時11、9、7才だったお子様たちの父親としても、民間人としての再出発が決して容易ではなく、様々な職業を転々としなければならなかった事情からもその暮らしは隠遁とはほど遠いものだったようである。

外務省の領事への処遇について

杉原領事がビザを発行した責任を問われて解雇されたのがその直後ではなく、それから七年も経ってからだったという背景には、ソ連やドイツに関する情報収集のためには領事のように外国語、特にロシア語に流暢な人材が当時のヨーロッパに於いては不可欠だったという外務省の事情もあるようだ。しかし、カウナス以降も外務省のために懸命に働いてきた領事にとって、すでにアメリカの占領下にあり、ドイツに義理だてしなければならない理由は何もなくなっていた故国で、しかも長い収容所暮らしを経てやっとその土を踏んだ所で辞職を勧告させられるというのは何と不本意なことであったことだろう。領事はこれに対してその時も、それ以降も一言の抗議もされなかったようであるが、助けられたユダヤ人によって領事の業績が世界各地で称えられるようになってからも外務省での名誉は正式には回復されていないと聞く。

杉原領事によって命を救われた人たちが今回のようにニューヨーク日本領事館などの公的機関を通じて日本人に感謝をし、それに対して日本側がそれを公的にうけたのであれば、外務省は、今こそ領事の名誉を回復し、日本が誇る外交官として自ら領事の勇気と功績を称えるべきではなかろうか。ご本人がおなくなりになっている今、それは遅きに過ぎる感じがしないでもないが、領事と共に苦難の道を歩んでこれらた幸子夫人のためにもその日が近いことを祈らずにはいられない。


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