Scarsdale
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ウィーン3 (Vienna)

ウィーンのユダヤ人地区(Jewish quarter in Vienna)

ウィーンのユダヤ人社会も他のヨーロッパの国と同じように時の為政者の政策によって繁栄と迫害の歴史を繰り返しています。ユダヤ人が最初に集団として移り住んだ12世紀には16人がキリスト教徒によって殺害される事件がありましたが1348年から49年までヨーロッパで猛威をふるった黒死病の時はその原因がユダヤ人であるとして迫害の対象にならなかった数少ない地区の一つとして、この時期に一挙に多くのユダヤ人がウィーンに移住します。1300年代後半にはウィーン市民の5%がユダヤ人となり、市の中心にあるユーデンプラッツには当時ヨーロッパで最大の一つであるシナゴーグが建設され、ユダヤ人はむしろ特権階級として王宮近くのこの居住区に住むことを許されていました。

しかしその後ユダヤ人はアルブレヒト5世 Duke Albrecht-V) により1420から21年にかけてウィーンから追放されシナゴーグもその時破壊されました。現在ユーデンプラッッツは、かって栄えたユダヤ人地区の名残りを伝えるウィーン唯一の場所として、またオーストリアのホロコースト犠牲者を弔う場所として残されています。(この場所を現在の姿で残すことに奔走したのはナチスの戦争責任を問い続け2005年に死去したサイモン・ヴィゼ ンソールです。)
 

ユーデンプラッツの広場

広場の中心にはユダヤ人解放に尽くしたレッシングの像が立っています。

ユーデンプラッツ・ミュージアム

1997年、記念碑を建設中に1440年初頭に破壊されたときのユダヤ教会が発掘され、その遺品が展示されています。

ホロコースト記念碑(2000年に完成)

オーストリアの6万5千人のホロコーストの犠牲者を弔うために建てられた記念日。内部は空洞になっていて外壁は永遠に読まれることのない本の並んだ図書館をイメージしたデザインとなっています。



1451年になるとハプスバーグ王朝の許可で帰還が許され、ユダヤ人はウクライナの迫害から逃れてきた人たちとあわせて再びその人口が増え始めます。 当時のユダヤ人は後にレオポルドシュタットとして知られるようになった区域での住まいを許されここがユダヤ人社会の中心地になります。マリア・テレサ女王の時代には再びユダヤ人に対する差別的な法律がたくさん制定されますが、1782年、息子のヨセフ2世の代になるとその法律は緩和されます。1867年になるとユダヤ人の居住制限が撤廃され、ロシアでのユダヤ人迫害を背景に東方ユダヤ難民の流入が続いたこともあってそれらが形成した「多民族混成都市」としての性格は世紀末ウィーンの芸術文化の土壌ともなっていました。ウィーンはヘブライ語の発行物で中欧の中心になった他、ユダヤ教改革派、シオニスト運動(ユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルが1896年にユダヤ人国家をパレスチナに建国する考えを提唱し、翌年にスイスのバーゼルでシオ
ニスト会議を組織、スタートした運動)の中心地としても躍動します。

ユダヤ美術館ではその当時のユダヤ人の活躍やウィーンにおけるユダヤ人の歴史のあとを辿ることができます。私たちが訪れた時は モーツァルト・イヤー2006の記念企画としてイタリア系ユダヤ人、ロレンツォ・ダ・ポンテの特別展が開かれていました。宮廷劇場付きの詩人だったダ・ポンテは、1782年にモーツアルトと知り合い、音楽史上の名作に数えられるオペラ「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」 を共同で制作しています。ダ・ポンテはその後トリエステ、ロンドンなどを経てアメリカに移りますが、展示の数々からウィーンにおける当時のユダヤ人の生活の様子などを伺い知ることができます。

ユダヤ美術館

地下鉄、シュテファン広場の近くにあります

ユダヤ美術館内部

ロレンツォ・ダ・ポンテ



しかし、金融から商業のみならず、医者・弁護士・学者などの知的職業で隠然たる勢力となっていったユダヤ人への反発も根強く、ウィーンは次第に反ユダヤ主義の温床ともなっていきます。ヒットラーは18歳からの5年半をこのウィーンで過ごしていますが、彼の反ユダヤ思想はこの時期に形成されたと言われています。彼はその著書、「わが闘争」の中でウィーン時代について「この多種族のバビロンの都市を思い出すだけでも胸が悪くなった」と回想しています。当時のウィーン市長カール・ルエガー(1844〜1910年)はドイツ民族主義に傾倒し、「ユダヤ人はオーストリア経済の寄生虫」とする扇動を繰り返していました。ヒットラーが「すべての邪悪なものの背後にはユダヤ人が関与している」としてのちに600万人のユダヤ人を虐殺した背景にはウィーンでのこうした反ユダヤ主義思想の影響が あったようです。

ナチスドイツによるオーストリア併合を決めた国民投票ではオーストリア国民の実に99.73%が賛成票を投じ、1938年3月15日にはウィーンの王宮前の英雄広場に50万人の群集が集まってヒットラー歓迎集会を開 いています。ウィーンでのユダヤ人に対する弾圧はこの後特に激しくなり、同年11月9日から10日にかけて起きたクリスタルナハトではユダヤ教会やユダヤ人経営の店が破壊された他、この夜だけで約6000人のユダヤ人がダハウの強制収容所へ送られたといわれています。ウィーンの西、列車で二時間のところにもマウトハウゼンという収容所があり、その後国外に逃げることの出来なかったオーストリアのユダヤ人の多くはここのガス室で殺害されました。1942年にナチスがユダヤ人問題の最終決定をしたあとウィーンに住んでいたユダヤ人6万5千人が絶滅収容所へ送られ、そのうち生き残ったのは2000人だけだったといわれています。

命令に従って街路に跪いて掃除をするユダヤ人のお年寄りの像

人としての尊厳が奪われた表情が哀れです。この像は不正、ファシズム、戦争反対の像の前にあります。

横から見た像

像の上には人が座ったりしないように金網がめぐらされてありました。実際にあったことを忘れないためとはいえ、あまりに屈辱的な姿だとして取り壊しを望む声も少なくなかったようです。

不正、ファシズム、戦争反対の像

戦争反対の像はアルベルティナ美術館のすぐ近くにある小さな広場に立っています。オーストリア人彫刻家アルフレート・フルドリチュカの作で、1988年に除幕式が行われました。

 


ウィーンのユダヤ教会現在オーストリア全体では約7400人、ウィーンには約800人のユダヤ人が住んでいるといわれています。「ウィーン・シナゴーグ」(写真)は警戒がものものしくメンバーでない私たちは中には入れませんでしたが、たまたま外であったメンバーの一人に話しを聞く機会がありました。その人の話ではホロコーストから60数年を経た今もオーストラリアには反ユダヤ感情がくすぶっている面があるということでした。もちろん以前のように何の理由もなく連行されるといった類の差別はありませんが、その感情は例えば国連の総長だったカーク・ワルドヘイムがナチスの協力者だったことが明るみになったあとでさえ国民が彼を熱狂的に大統領に選出したことなどであらわれると言っていました。オーストリア政府は1993年、ナチスの犯罪に協力したこと公に認めるなど反ユダヤ主義の台頭を防ぐ努力をしていますが、人々の心に染み付いている偏見を一掃するのは困難なことのようです。(写真は1824年から26年に建てられ、ウィーンでナチスに破壊されずに残った唯一のユダヤ教会「ウィーン・シナゴーグ」。)

テルチ(Telc)




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