Scarsdale
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スカースデール日本祭

「ニューヨークの田園調布」に出現した日本人村   「日本化されるスカースデール」     スカースデール日本祭開催の提案と実践されるまでの問題点    日本祭いよいよ開催

経済成長に伴う日本企業の相次ぐ海外進出で1980年代後半から1990年代の前半にかけてニューヨークの閑静な郊外のあちこちに一挙に日本人コミュニティが出現したことがありました。これは当時の様子と結果的にもたらされたさまざまな問題に対して日米住民が協力して解決に動いた地域の一例です。

「ニューヨークの田園調布」に出現した日本人村

JJタウン:

週間朝日記事我が家がニューヨーク市内からスカースデールに引っ越したのは、1984年のことでした。環境がよく、近くにシナゴーグ(ユダヤ教会)や日本語補習校があったことがこの町を選んだ理由です。スカースデールに移る前は、6年ほどブロンクスにあるリバデールという町の近くに住んでいました。リバデールは、マンハッタン北端とハーレム川を間に向かいあい、ハドソン川に沿った高台にある住宅街で、私たちがマンハッタン北部のワシントンハイツのアパートから長男が生まれ(た機会にこちらに引っ越したのは、緑の多い静かな環境が子育てにぴったりと思われたからでした。(写真は「週間朝日」1988年度新年号)

家探しの最中、不動産屋さんの一人に、「日本人のお客さんはユダヤ人が好きだね。ユダヤ人は教育に熱心だと言うんで、ユダヤ人の多い学区に住みたいと言うリクエストが少なくないよ。」と言われたことがありますが、引っ越したあと私たちはこの町がジャパニーズとジュー(ユダヤ人)の多い町という意味で日本人の間で「JJタウン」と呼ばれているのを知りました。当時リバデールの他にはニューヨーク近郊ではクイーンズ区のフラッシングやフォーレスト・ヒルズ、ニューャージー州のフォート・リー近辺なども日本人が多い所として知られていましたが、「JJタウン」などと呼ばれていた所がひょっとすると他にもあったのかも知れません。とは言え、こうした町の日本人の数もそれから数年後にいわゆる「高級住宅地」といわれている地域にあっと言う間に出現した日本人コミュニティの人口を思えば、まだとるに足りないものだったように思います。

私たちがスカースデールに移った頃、リバデールの町では日本人コミュニティにもその人口に変動が起きていました。町の大半を占めるアパートが、コアプ(COOP)かコンドミニアム、つまり日本で言うマンションへの転換をはじめたのをきっかけに、日本企業は経済的に余裕が出来たこともあって、家族をウェストチェスター・カウンティの住宅街に移動させたのです。同じような動きはその頃クィーンズのフラッシングやフォーレスト・ヒルズなどでもはじまっていました。こちらは年々悪化する治安を心配した企業が社員を郊外のより高級で環境のよい住宅地に移ることを奨励しはじめます。こうした移動に加え、円高に伴って様々な分野の企業が大挙してニューヨークに結集しはじめた結果、1985年の後半からニューヨーク近郊の閑静な住宅街のあちこちに突然日本人コミュニティが出現します。私はユダヤ系アメリカ人である夫と共に、子供たちに日本文化とユダヤ文化を同時に継承させたいと、そのために理想的な環境を探してスカースデールに落ち着きましたが、たまたまそこが日本人駐在員家族にも人気のある居住区のひとつとなったため、その後期せずして日本人との関わりの少なくない生活をおくることになります。

スカースデールにやってきて間もない頃、長男をおくって小学校へ行った私は初対面の人に、「日本人の方ですか」と聞かれたので、はい、そうです、と答えると「わあ、また日本人!」と言われて面食らったことがあります。他に言葉もみつからないので、笑いながら、「日本人で済みませんね。」と答えると、彼女はうんざりした調子で、「この学校にはもう日本人が十数家族もいるんですよ。」と言うのでした。でも、そんなこと、私たちは事前に調べて百も承知でした。子供たちの教育にスカースデールを選んだのは日本語補習校も近くにあったからで、そのため現地校に日本人の子供たちがいるのは私にとっては初耳でも何でもなかったのです。それにしても初対面の人にいきなり「わあーまた日本人!」はないもんだと苦笑しながら、彼女の言い方に何となく芥川龍の介の「蜘蛛の糸」の話が思い出されておかしかったものです。

その後私はすぐPTAの活動をはじめたので、毎日のように学校に行って校庭で遊ぶ子供たちの様子もしょっちゅう目にしましたが、全体で15人ほどいた日本人の子供たちは、いつも喜々してみんなと一緒に飛び回っているように見えました。もちろん、それぞれには適応で大変な思いをしていたには違いありませんが、外から見るかぎり特に目だつ程ではなかったのです。所がその私が、もちろん口には出しませんでしたが、心中、「あれ、またー」と驚くような状態が数年後にやってきます。その増え方は確実に一年毎に倍加するという感じで私たちがスカースデールに引っ越してから3年後にはその数は3倍以上に達し、クラスの3分の1が日本人というクラスも珍しくなくなったのです。そして、この状態はスカースデールに限らずニューヨーク近郊の同じような環境の住宅地に軒並み拡がっていったようで、集中が原因で住民との間に起りはじめた軋轢の様子が日米のメディアでもしばしば報道されるようになります。

日本人記者の目にうつった日本人駐在員家族

今、私の手元に「週間朝日」の1988年新年号が残っています。(トップ写真)この特集記事、「ニューヨークの『田園調布』に出現した日本人村」(木代康之特派員)を見ると、当時のスカースデールやその周辺の日本人の様子が日本人記者の目にどのようにうつったかを垣間見ることができます。「天井知らずの円高の打撃を和らげようと、日本企業はこの1、2年、米国進出に社運を賭けている。この結果、海外勤務など夢にも思わなかったサラリーマンたちが、家族を連れて全米各地に赴任している。彼らは異文化とどう付き合っているのか。『究極の輸出商品』となったニッポン・サラリーマンの実態を報告する」という書き出しではじまるこの記事は、現地ルポ:「輸出されるニッポン・サラリーマン」シリーズ、の第一弾として日本人集中学区の一例にスカースデールを選んだのでした。記事の要旨はざっとこう言った所です。
 
「スカースデールは、日本でいえばさしずめ東京の田園調布か、関西の芦屋の高級住宅地にあたり、教育水準の高さでも全米に名の知れた所で、地元の不動産業者によれば、多くの米国人が一度は住んでみたいと考えるが、たぶん一生住めない町である。(これは場所によりけりです。)そうした高級イメージが受けて、ここ数年の間に銀行や大手企業の社員を中心に日本人家族がどんどん増え続け、その人たちを目当てにした日本の商店も町の周辺に続々開店、小中学校相手の塾の進出も著しくなっている。その結果、学校でも日本人の占める比率が異常に高まり、平均すれば小学校の四人に一人が日本人となっており、その為に『貿易摩擦』の教育版とでもいった状況も見られるようになっている。一方、母親たちの生活は、今や一日中、ほとんど英語を使わず生活が出来、米国人と付き合うより、日本人同士がうまく付き合ことの方が大切となっている。」

記事の最後は、インタービューに答えた私の、次のような言葉で締め括られています。

「英語が分からないのに毎日教室に座っているのは子供にとって大変な苦痛で、そのストレスは家庭で母親にぶつけることになりがち。母親たちはそのことで夫に助けを求めたくても、彼らはほとんど家にいない。そうしたこともあって日本人の母親たちはお互いで固まざるを得ないのだと思う。そうした母親たちの立場はほとんど日本では問題にもされていないようで、企業は、相変わらず赴任前に何の研修も施さずどんどん海外に送り出す。日本経済の繁栄は母親の重い負担の上になりたっているようです。」

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「日本化されるスカースデール





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