Scarsdale
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「週間文春」と宇野正美氏: (繰り返される歴史) ある母親の記録 ニューヨーク日米, Feb.1, 1990)

息子よ。

イメージ:ひまわりおまえの目が自分のそれと同じ高さにあるのを、偉大なる発見のように驚いたのはついこの間だったような気がするのに、おまえはもう遥かに私をしのいで、ダディとほぼ肩を並べるまでになった。鼻の下の、光線の具合によっては時々きらきらと金色に輝いていた可愛らしい産毛は何だかうっそうと黒味を帯びはじめ、きんきんと甲高かった声もいつの間にかすっかり低音になってしまっている。言葉数も段々少なくなって、その内容も驚くほどしっかりしてきたし、おまえが、少年期を脱皮しはじめているのをはっきりと認めない訳には行かなくなった。もちろん、あと二ヶ月で十三才になるおまえの年齢を考えれば、そう言う生理的、内面的変化は当然の事とは思うのだけれど、マミーと来たらおまえたちにはいまだに、あれ、いつの間に、あれ、いつの間にと驚かされてばかりいるような気がする。早く大きくなって欲しいと思う気持ちの一方でなるべく今のままでいて欲しいと言う思いの矛盾がおまえたちの早い成長と歩みを共に出来ないで、慌ててあとから追い掛けてばかりいる気持ちにさせるのかもしれない。

あと二ヶ月でやってくる十三才の誕生日は、おまえの人生にとって、最も思いで深い日の一つとなるのではなかろうか。この日におまえは、ユダヤ教のしきたりによって成人式を迎えるからである。バル・ミツバと呼ばれるこの式で、おまえは、トーラー(モーゼ五書)の一部をヘブライ語で朗読する事で、ラビや出席者一同の祝福を受けて、ユダヤ教の大人としての道を歩き出すことになる。この日の為に、おまえは何年もかけて、ユダヤ教の教えや歴史、ヘブライ語などを学んで来た。これからの二ヶ月もその仕上げで忙しいし、バル・ミツバのあとはまた成人としてのユダヤ教に対する勉強が始まるだろう。それゆえ、ユダヤ教の学習に終わりはない訳だが、この日がおまえの大人としての出発点となる大切な日であるのは確かな事だ。この日に向けたトーラー朗唱の練習に余念のないおまえを見るたび、私の胸はよくぞここまでと言った誇りでいっぱいになる。遠路はるばるやって来る親戚や友人たちの為に、また、おまえを恥ずかしがらせたりしない為にも、バル・ミツバの日はなるべく平静を装うつもりではいるのだけれど、喜びに感極まって泣き出したりするのではないかとマミーは自分の事ながら今からちょっぴり心配だ。

さて、最近読んだ雑誌の中にまた非常に気になる記事があったので、この事についておまえたちと一緒に考えて見たい。それは、「週間文春」と言う雑誌の中の、デーブ・スペクターと言うユダヤ系のアメリカ人と「ユダヤが解ると世界が見える」などの著者である宇野正美氏の対談の内容であったが、対談を通じて掃き出された宇野氏の無神経な意見は、若し彼のような人が主流を占める世の中になったらと、ぞっとするような懸念を抱かずにはいられないものだった。 

対談を通して宇野氏が言わんとした点は、六百万のユダヤ人がナチスによって殺害された事になっているが、どの様な調査をもってしても絶対にそれだけの数になる筈がなく、ユダヤ人は出鱈目な数を公表してイスラエルに対する人々の同情を引こうとしているといると言うものであった。ガス室で殺害されたとされている人の数にしても、自分の見た強制収容所の規模から言っても、公表されている数にはとうてい及ぶものとは思われず、これもユダヤの謀略であると言うのである。ファイナル・ソリューションに至るまでに何年もかけて行われたユダヤ人に対する迫害や、強制所に送られる前に殺された人達、ガス室へ行くまでに飢餓や伝染病などでなくなった人達の事は全く彼の頭にはないらしく、また、ナチスの犠牲になったのがユダヤ人だけではなかった事にも彼は触れていない。ナチスは、ポーランド人やジプシー、また自国民でさえ、精神病者、同性愛者など、生きるに値しないとした多くの人たちをガス室に送りこんでいるし、犠牲者の数は非ユダヤ人だけでさえ五百万人と言われているのである。アーリア人の優位性をうたい、その為には他民族を消滅させ得ると考えたナチスが、若しあのまま勝ち続けていったとしたら、同盟国とは言え黄色人種である日本人だって犠牲にならなかったと言う保障はない。

ナチスの犯罪は決して、ユダヤ人だけになされたものではなくそれゆえにこそユダヤ人は人類に対する犯罪としてこの事を叫び続けているし、これからも叫び続けて行かなくてはならないと思っているのである。唯一の原爆降下国として、日本人が原爆の怖さを世界に訴え続けて行くのも、これが日本だけでなく他の人類に及ぶのを防ぐためであり、そうしなければならない責任があるからではないだろうか。ナチスの犯罪から人類が学ばなければならない事は、正確に何人の人間が死んだかと言う事より、なぜそのような事が起こり得たか、そう言った事が再び繰り返されない為には個人として、或いは国として何をすべきかと言う事である筈だ。

宇野氏の無神経な主張に対する怒りや悲しみ、危惧感もさることながらそれにもまして私を震撼とさせたのは、この対談に対する、「さて、読者諸氏は、宇野氏、スペクター氏のどちらに軍配を上げるか」と言う「文春」側のまるで揶揄したようなまとめ方だった。これは、どちらに分配を上げるかと言うような、そんな次元で語られる問題ではないからだ。例え、宇野氏が主張するように、その数が公表されている数に及ばないとしても、ヨーロッパのユダヤ文化が消滅してしまう程ユダヤ人が抹殺されたのは疑うべきもない事実なのである。人数が少なくなった所でナチスの犯罪が軽減されるものではない。宇野氏が歴史から何も学ばず、ある意図によって、ユダヤ人を誹謗し続けるのはそれが本人の生活の糧であるとしても、文芸春秋社による発行物である決して三流誌とは思えない「週間文春」のような雑誌が、この問題をこう言う安易な形で取扱っている事は不愉快さを越えて、国際的にも非常に恥ずかしい事と思わざるを得ない。この事については、読後直ぐ雑誌社宛て抗議の投書をしたのだけれど、無視されてしまった。私の意図とする事が雑誌社には伝わらなかったようで残念である。しかし、こんな事でいいのだろうか、歴史を真剣に考え、そこから学んで行かないとしたら、またどこかで同じ事が繰り返されるのではないかなと言う恐れに似た気持ちは、わたしの中から容易にさりそうにもない。

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